インナーウェア
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「アンダーウェア」はこの項目へ転送されています。ドラマ作品については「アンダーウェア (ドラマ)」を、槇原敬之のアルバムについては「UNDERWEAR」をご覧ください。
女性下着(パンティー男性下着(ボクサーショーツ

下着(したぎ)とは、最も内側(肌に近い側)に着用する衣服の総称であり、アンダーウェア、インナーウェアともいう。Tシャツなど、1枚で着用することも想定している衣服を1枚で着用し、結果的に最も内側に着ていることになっていたとしても、通常それを下着とは呼ばない。

下着のうち、上の服を身体からの汚れから守り、体の保温、快適さ、加えて衛生を維持する目的で肌に直接着けるものは肌着(はだぎ)と称される。一方、ブラジャーガードルのように、女子の体形を美しく整えるための下着は、直接肌に付けるものでも肌着ではなく、ファウンデーションに分類される[1][2]
女性用下着について

女性用下着は、大きく分けて次の3種類に区分される[3]

ファウンデーション(foundation):補正下着や補整下着と呼ばれるもので、体型を整え上衣を格好良く着こなすための下着。

ランジェリー(lingerie):装飾性があり、下着姿そのもので女性らしさを演出するための高価な下着類。

アンダーウェア(underwear):通常の肌着としての下着。

歴史
古代シチリア島ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレから出土したローマ時代のモザイク。当時の下着姿の女性

適当な大きさに作られたに巻きつけたものが最初の下着であったと推測される。大きく分けると2つの種類に分けられる。紐で腰に結びつけて股の下を通し、後ろで紐に通し固定するふんどし型のものと、胴回りに幾度も巻き付けてピンや細いベルトで止める腰巻き型のものである。ジャングルなどの熱帯地帯では、褌だけで快適に生活することができる場合が多く、この場合は下着ではなく、ズボンのように服の一部とみなすことができる。しかし、それ以外の地方では下着の上に数枚の衣服を重ね着する。多くの古代の文明ではこのような下着が唯一の衣服である。アジアアフリカ、それにインドなどの様々な社会でこのような簡素な下着が使用され続けている。

古代社会では、男性だけでなく女性もこのような下着を着用していた。古代ギリシア古代ローマ帝国では、ローブのように胸から垂らした布により下着を隠し、落ちないようにピンや金具で支えていたとされる。また多くのローマ帝国の人々は尻と股を隠す現在のショーツに良く似た下着を着用していた。
中世・ルネサンスブライズを着た農夫ティツィアーノ・ヴェチェッリオによる神聖ローマ皇帝カール5世の肖像。股の部分にコッドピースをつけている

中世ヨーロッパでは、などの目の荒い織物から、柔らかい綿などの平織りの素材で作られるようになり、またゆったりとした衣服のデザインが流行した。腰と太ももで紐で固定するブライズ(braies)と呼ばれる薄手の素材のズボンが着用されていた。豊かな者はチャスズ(chausses)という足を覆う下着を着用していた。ルネッサンス期に入ると、チャスズはより体に密着するタイツのようなものになり、ブライズは徐々に短く、小さくなっていった。しかし、このどちらも他の服で覆う事はなかったため、厳密には下着のうちに含めるべきではないかもしれない。

ブライズの前面には、ボタンや紐で留められる窓があり、脱がずにここを通して男性は排泄を行うようになっていた。この窓は徐々に男性の魅力を増すため装飾され、コッドピース(codpiece)と呼ばれるようになる。イギリスヘンリー8世は、局部を際立たせるために詰め物を入れることを考案したとされており、16世紀末までこのアンバランスな流行は終焉することはなかった。

現在、シャツと呼ばれている前ボタンで身につけられる男性用の上衣は中世からルネッサンス期にかけて考案されたが、当初は下着であった。膝まで丈がありズボンの中に入れ込み、下履きを兼ね着用した。ワイシャツの裾ラインがカーブしているのはその名残である。鎧の下に着用されていたダブレットもこの時期にファッションとして確立され、やはり下着として使われている。

中世の女性は体に密着するアンダードレスとブライズのような下着を着用している。時には、シフト(shift)と呼ばれる綿製の下着をアンダードレスの下に身につけることもあったが、後の時代になるまで一般的ではなかった。

ルネサンス期の女性のスカートはふっくらと傘のように広がっているものが流行であり、ドレスの下にファーティンゲール(farthingale)というスカートを支えるフレーム枠付きの下着を身につけている。16世紀の終わりには、スカートのボリュームは女性の体の倍以上も広がり、歩道の通行も困難になる。

中世ヨーロッパで、十字軍に参加した夫の不在時に女性の身を守るため、下着として貞操帯が開発されたとされているが、事実かどうか定かではない。多くの貞操帯は非実用的なほど複雑であったり、重すぎたりしており、歴史研究家の間でもその実際の用途に懐疑的な見方がある。
産業革命

18世紀に入ると、プランテーションによる綿花の増産、自動機織機の開発、綿繰り機械の発明により、安価な綿布製品を大量生産することができるようになる。家で手工業として作られたものではなく、工場で大量生産された下着を店で買うということができるようになったのはこの時代である。19世紀の一般的な下着は、男性、女性、子供を問わず、手首から足首まで覆うユニオンスーツ(union suit)であり、これには排泄時のために後ろに大きめの窓がついていた。

18世紀の女性はステイズ(Stays)と呼ばれる後ろから身につけ、胴の前に紐で止める下着を身につけるようになる。始めは一枚の布であったステイズは、1750年代から1760年代にかけてスタイルを保つために厚めの布で作られるようになり、コルセットと呼ばれるようになった。染色技術の発達により様々な色が使えるようになったが、女性の下着は白が一般的であった。19世紀に入ってもコルセットは貴族階級の間で使われており、より体を拘束するようにデザインが変わっていった。細い腰がの象徴とされ、鯨の骨鋼鉄がコルセットに縫いこまれ、人の手を借りて締め上げるものが広く用いられている。着用時に苦痛を伴うことが多く、また血行不良や酸素不足からてんかんの発作、内臓に重い障害を負う女性もいた。これらの後期型のコルセットは胸を覆う丈に作られておらず、腰の細さを際立たせるために胸の下で終わっていてコルセットの上に胸が乗るようになっていた。

多くの場合、綿やモスリン製のシフト(shift)と呼ばれる薄いシャツのような下着がコルセットの下に身につけられていた。19世紀の後半にスカートの長さが短くなり素足を隠す必要性から、パンタロンと呼ばれる長い下半身用の下着が着用されるようになる。

この時代に特徴的な女性用の下着として、ペチコートとスカートの形を保つクリノリン(Crinoline)があげられる。クリノリンはルネサンス期のファーティンゲールと同じようにスカートの形を保つ機能があり、従来の木枠や骨枠と違い張りのある布で作られ、重ね着するようになっている。値段も安くなり、貴族の間だけでなく、庶民にも広まった。貴族の間ではなどの上質な生地で作られたものが使用されている。

クリノリンの流行でふくらみすぎたスカートはしぼんで簡便になり、女性のスカートの尻の形を大きく際立たせるバスル(bustle)という型になり、18世紀から19世紀にかけて二度流行し1880年代にピークに達した。しかし、1890年代には流行遅れとなり、それ以後は流行することはなかった。
1900年代

20世紀の初頭には下着市場は飽和状態になり、競争から様々な工夫や機能が生まれる。現在でも下着大手のヘインズ社は、この競争を勝ち抜いた会社の1つであり、ユニオンスーツの最大手になる。紡績技術も進化を続け、1着のユニオンスーツを1時間未満で作れるようになる。

女性用下着は依然、コルセットが使用されているが、化学繊維やより強靭な布が織られるようになり、鯨の骨や鋼鉄の必要性はなくなった。
1910年代女性下着の広告(1913年)

激しい下着市場の競争から広告の必要が認識され、様々な形の広告が登場するようになる。アメリカで最初に下着の広告が掲載されたのは1911年サタデー・イブニング・ポストという週刊誌の紙上であり、ケノーシャ・クローズド・クロッチ(Kenosha Klosed Krotch)を描いた画家、J.C.レインデッカーの油絵が掲載された。初期の広告の売り文句は耐久性と着易さを強調しており、ファッション性はまったく問題にされていなかった。

1910年代の後半に、カルマーズ紡績会社(Chalmers Knitting Company)がユニオンスーツを上下の2枚に分けることを考案し、事実上、アンダーシャツズロースを発明する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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