インド憲法
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インド憲法
Constitution of India
?????? ???????
インド憲法
施行区域 インド
成立1949年11月26日
施行1950年1月26日
権力分立三権分立
(立法・行政・司法)
元首大統領
立法国民議会
行政首相
司法最高裁判所
改正104
最終改正2020年
旧憲法1947年インド独立法
作成憲法制定議会
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インド憲法に署名するネルー首相(1950年)

インド憲法(インドけんぽう、英語: Constitution of India、ヒンディー語: ?????? ???????)は、第二次世界大戦後インド憲法

基本的な政治原則の定める枠組みを規定し、組織、手続き、権利義務政府を制定し、基本的人権、インドの指導原理、市民の義務が記されている。世界の独立国の憲法の中で、最も長い[1]成文憲法であり、22の編と395の条項、12の附則、110の修正条項[2][3]がある。[注釈 1]英語版では全部で117,369文字に及ぶ。英語版の他、ヒンディー語の公式訳が存在する。

この憲法は、1949年11月26日に憲法制定議会で成立し、1950年1月26日に施行された[4]。1月26日は、1930年のプールナ・スワラージ(完全独立)を記念して選ばれた。憲法は、インド連邦が、主権を有する社会主義の世俗的民主共和国であり、市民に司法法の下の平等自由が保障されていることを宣言し、市民に友愛(fraternity)を奨励している。「社会主義」「世俗」「保全(integnity) 」という語は、1976年の改正で定義に付け加えられた[5]。インドでは、1月26日の憲法施行の日を「共和国の日」として祝う[6]。憲法施行後に、1935年インド統治法は廃止された。
背景

1858年から1947年までインド亜大陸の大部分は、イギリス領インド帝国の支配下にあった。この時代、外国の支配からの独立を獲得するためのインド独立運動が徐々に盛り上がってきた。この運動は、1947年8月15日のインド連邦(自治領)とパキスタン(自治領)の成立(1947年インド独立法(英語版))により最高潮に達した。インド憲法は1949年11月26日に成立し、1950年1月26日に施行され、インドが主権を有する民主共和国であることを宣言し、イギリスの支配から独立した後のインドを統治する国の法原則を制定した。憲法が施行された日に、インドはイギリス王室ドミニオンではなくなった。
憲法制定までの沿革
1935年以前のイギリス議会制定法

インド大反乱以降、イギリス議会東インド会社からインドの統治を引き継ぎ、イギリス領インド帝国はイギリス王室の直接支配下に置かれた。イギリス議会はインド統治改善法を制定し、インドの統治機構を作り上げた。この法律では、イングランドにインド省大臣とそれを補佐するインド参事会を置いてイギリス議会の定めた法を執行させ、さらにインドには総督と、イギリス政府高官で構成された行政参事会(Executive Council)を置いた。1861年インド参事会法では、行政参事会の委員と民間人で構成される立法参事会(Legislative Council)が創設された。1892年インド参事会法では州の立法府が創設され、立法参事会の権限も強化された。これらの法律は政府におけるインド人代表者を増加させたが、彼らの権限は依然として制限されていた。1909年インド統治法と1919年インド統治法では、さらに政府内のインド人の割合が増加した。
1935年インド統治法

1935年インド統治法の規定は完全に実行はされなかったが、インド憲法に大きな影響を及ぼしている。インド憲法の重要な特徴の多くは、この法律から直接引用されている。政府の連邦組織や州の自治、ローク・サバー下院)とラージヤ・サバー上院)による二院制、中央と州の立法権の分離等は、インド憲法にも存在する規定である。
閣僚使節団計画

1946年、首相のクレメント・アトリーは、イギリス連邦の自治領(ドミニオン)としての独立だけでなく、イギリス領インド帝国からインド人指導者への権限の移譲について話し合い、結論を出すべく、閣僚使節団をインドに派遣することを決めた[7][8]。使節団は憲法の枠組みについて議論し、憲法制定機関に引き継がれる手順の詳細を制定した。296議席の選挙は、1946年までに完了した。憲法制定議会(英語版)は1946年12月9日に初めて開かれた。
1947年インド独立法

1947年7月18日に施行されたインド独立法(英語版)は[注釈 2]、イギリス領インドの領土をインドとパキスタン2つの新しい国に分割し、それらの国の憲法が施行されるまでイギリス連邦の自治領(ドミニオン)とすることを定めた。憲法制定議会もこれらの国ごとに分離された。この法律は、イギリス議会からインドとパキスタンに対するあらゆる権利義務を奪い、それぞれの憲法制定議会に国の主権を与えた。1950年1月26日にインド憲法が施行されたとき、この法律は廃止された。インドはイギリス王室の自治領(ドミニオン)ではなくなり、主権を有する民主共和国となった。1949年11月26日も「国法の日」として知られている。
憲法制定議会

インド憲法は、州の議会の議員によって選ばれた憲法制定議会によって起草された[9]ジャワハルラール・ネルーラージェーンドラ・プラサードヴァッラブバーイー・パテール、Sandipkumar Patel、ビームラーオ・アンベードカル、Abul Kalam Azad、Syama Prasad Mookerjee、N.R. Ghosh、Balwant Singh Mehtaらは、その重要人物である。憲法制定議会には、30人以上の指定カースト民の委員がいた。Frank Anthonyは、アングロ・インディアンのコミュニティーを代表し、H. P. Modiはパールシーを代表した。少数派委員会 (Minorities Committee)の議長は、アングロ・インディアンを除く全てのキリスト教徒を代表する有名なキリスト教徒であるHarendra Coomar Mookerjeeだった。Alladi Krishnaswamy Iyerやビームラーオ・アンベードカル、Benegal Narsing Rau、K. M. Munshiのような有名な法学者も委員になった。サロージニー・ナーイドゥ(英語版)、ハンサ・ジブラージ・メフタ、ドゥルガバイ・デシュムク(英語版)、ラジクマリ・アムリット・カウル(英語版)は、重要な女性の委員である。憲法制定議会の初代議長はSachidanand Sinhaであり、後にラージェーンドラ・プラサードが議長に選ばれた[9]。委員達は、1946年12月9日に初めて会合した。
起草

1947年8月14日の憲法制定議会の会議で、各種委員会を作る提案がなされた。基本的人権に関する委員会や連邦の権限に関する委員会、連邦憲法に関する委員会などがあった。1947年8月29日、起草委員会が選任され、ビームラーオ・アンベードカルが議長として、その他に6人の委員が選ばれた。憲法草案はこの委員会で準備され、1947年11月4日に憲法制定議会に提出された。

インド憲法の立案者は多くの外国の資料を参考にしたが、中でもイギリス議院内閣制に最も大きく影響を受けた。さらに、権力分立インド最高裁判所の設置、変形されてはいるが連邦制(連邦政府と州政府の権限の憲法上の分離)の採用等、多くの原則がアメリカ合衆国憲法から採用された。

憲法制定議会は、憲法を制定するまでに166日間、2年以上にわたり、11ヶ月と18日間、公の会議で会合した[6]。多くの審議と修正の後、1950年1月24日に308人の委員が2つの文書の写し(ヒンディー語と英語)に署名した。


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