インド大反乱
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インド大反乱

メーラトデリーカーンプルラクナウジャーンシーグワーリヤルの位置を示した「1857年 - 59年 北インドでの大反乱」地図(1912年)

1857年5月10日 ? 1859年11月1日
場所インド(cf. 1857)[1]
発端東インド会社による様々な行動がインド兵(セポイ)の反乱を招き、それに東インド会社による統治に不満を持っていた民衆が合流
結果イギリスの勝利、ムガル帝国の滅亡、東インド会社による統治の終焉、英王室の直接統治によるイギリス領インド帝国成立
領土の
変化東インド会社が消滅し、イギリス領インド帝国が成立(一部の土地は藩王国に返還・譲渡され、それ以外はイギリス王室に接収された)

衝突した勢力

ムガル帝国
東インド会社の反乱シパーヒーに組したシパーヒー

インドの民衆、特にアワド藩王国の住民、タールクダール(地主層)とムスリムのガーズィー(宗教的戦士)層達

マラーター王国ペーシュワー(宰相)バージー・ラーオ2世の養子ナーナー・サーヒブとその武将ターンティヤー・トーペー率いる勢力

東インド会社により接収されたジャーンシー藩王国の元王妃ラクシュミー・バーイーの勢力

イギリスにより退位させられたアワド藩王国の藩王(ナワーブ)の王妃ハズラト・マハルとその息子ビルジース・カドルの支持者達

ビハールの大領主クンワル・シングの勢力

イギリス陸軍
東インド会社に忠実だったシパーヒー達
東インド会社のイギリス人正規兵
現地のインド人非正規兵ベンガル地方で招集されたイギリス系及びヨーロッパ出身の民間人義勇兵部隊
ネパール王国藩王国21カ国

ニザーム藩王国

ジャンムー・カシミール藩王国

ジャイプル藩王国

ジョードプル藩王国

ウダイプル藩王国

ビーカーネール藩王国

ブーンディー藩王国

バラトプル藩王国

アジャイガル藩王国

アルワル藩王国

ボーパール藩王国

ビジャーワル藩王国

カプールタラー藩王国

パティヤーラー藩王国

ラームプル藩王国

リーワー藩王国

ケーンドゥジャル藩王国

ナーバー藩王国

シローヒー藩王国

ジャーオラー藩王国

トラヴァンコール藩王国

指揮官
バハードゥル・シャー2世
(反乱軍最高指導者)
バフト・ハーン
(反乱軍総大将)
ナーナー・サーヒブ
ターンティヤー・トーペー
ラクシュミー・バーイー
ハズラト・マハル
クンワル・シング ヴィクトリア女王
パーマストン子爵
インド駐在軍総司令官:
ジョージ・アンソン
サー・パトリック・グラント
サー・コリン・キャンプベル
ジャンガ・バハドゥル・ラナ[2]

インド大反乱(インドだいはんらん、: Indian Rebellion、Sepoy Mutiny)は、1857年から1858年の間にインドで起きたイギリス植民地支配に対する反乱民族的抵抗運動のことである。かつては「シパーヒーの乱」、「セポイの反乱」、「セポイの乱」と呼ばれたが、反乱参加者の出身・身分が多岐にわたり、インド社会全体に広がっていた事から、最近では「インド大反乱」と呼ばれる様になっている。

これらはいずれもイギリス側の呼称であり、独立したインド側からは「第一次インド独立戦争」(India's First War of Independence)と呼ばれている(英語での呼称も「Indian Mutiny」、「the Great Rebellion」、「the Revolt of 1857」、「the Indian Insurrection」など複数ある)[3]
背景マドラスのセント・ジョージ要塞

イギリスは、1623年アンボイナ事件以降インドネシアを断念し、インドへの進出を開始した。イギリス東インド会社カルカッタボンベイマドラスを拠点に本格的にインドの植民地化をすすめ、ムガル帝国を形骸化させていった。

このときイギリスは、インドを本国で製品を生産するための原料供給地並びに、自国の綿製品を売り込む市場と位置づけたため、インドの資源はイギリスに吸い取られ、産業革命を成功させた大量の良質な綿製品がインドに流入したため、極端なインフレ状態になり国内は混乱し土着の綿工業は急激に衰退した。


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