インド古典演劇
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インド古典演劇(インドこてんえんげき、: ?????)とは、古代インドにおける戯曲(ナーティカ)と演劇(ナーティヤ)の伝統を指す[1]

インド亜大陸における演劇のルーツは『リグ・ヴェーダ』(紀元前1500年頃-前1200年頃成立)まで遡ることができる。『リグ・ヴェーダ』には対話形式や場面形式をもつ讃歌、動物寓話(英語版)など他の文学形式を用いた讃歌が含まれている[2]。しかしながら、インド演劇における古典期は、紀元前3世紀から4世紀に『ナーティヤ・シャーストラ』(N?tya??stra、「劇の科学」)が編纂されたことで始まった[3]。インド古典演劇は、カーヴィヤ、そしてサンスクリット文学における最高峰であるとみなされている[4]

サンスクリット古典文学ならびに古典演劇の歴史は、仏教徒の劇作家で詩人、哲学者であったアシュヴァゴーシャ(馬鳴、めみょう)をもって始まった[5]。彼による代表的な作品に『ブッダチャリタ』がある。アシュヴァゴーシャは、おそらく紀元前2世紀頃に生きたとされる劇作家バーサ(英語版)[注釈 1]と並び、最初期のサンスクリット劇作家であると考えられている。

サンスクリット古典劇では、その名称にもかかわらず、サンスクリットとプラークリット(演劇プラークリット(英語版))の二言語が用いられるというバイリンガルな性質をもっていた[注釈 2][6]。これらの劇ではストックキャラクターが用いられ、ヒーロー(nayaka、ナヤカ)、ヒロイン(nayika、ナイカ)、おどけ役(vidusaka、ヴィドゥーシャカ)などが登場する。また、それぞれの役者は、これらの類型のいずれかに特化していた。紀元前2世紀頃の文法学者であるパタンジャリの手によって成った『マハーバーシャ(英語版)』(『大注』または『大注解書』)は、サンスクリット戯曲の萌芽ともいうべきものについて最古の言及を行っている[7]。この文法書は、インドにおける舞台芸術(英語版)が始まった年代についての手がかりを与えている[7]

4世紀から5世紀に活躍したカーリダーサは、言うまでもなく古代インドにおける最も偉大なサンスクリット戯曲作家である。カーリダーサによる恋愛劇は3つ、すなわち『マーラヴィカーグニミトラ(英語版)』(『マーラビカーとアグニミトラ』)、『ヴィクラモールヴァシーヤ』(『勇気によって得られたウルヴァシー』)、『アビジュニャーナシャクンタラー』(『思い出のシャクンタラー、あるいは、指輪によって思い出されたシャクンタラー』)である。三番目の戯曲は『マハーバーラタ』から題材を採っており、また彼の最も有名な作品であり、そして英語とドイツ語に初めて翻訳された作品でもある。この戯曲はまた、ウィリアム・ジョーンズによって英訳された『シャクンタラー』を通じて、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』に影響を与えている[4]。カーリダーサに次ぐインドの劇作家に、バヴァブーティ(英語版)(8世紀後半頃)がいる[8]。彼は3つの作品を残したとされる。すなわち、『Malati-Madhava』(マラティとマダヴァ)、『マハーヴィーラ・チャリタ(英語版)』(『偉大なる英雄の所行』)、『ウッタラ・ラーマ・チャリタ(英語版)』(『続編ラーマの所行』)[9]である。このうち2作目と3作目は『ラーマーヤナ』から題材を採っている。ヴァルダナ朝の王、ハルシャ・ヴァルダナ(606年-648年)は、喜劇『ラトナーヴァリ(英語版)』と『プリヤダルシカー(英語版)』、仏教劇『ナーガーナンダ(英語版)』(『竜王の喜び』[10])の3つの劇を書いたとされている。そのほか、シュードラカ(英語版)や、前述のアシュヴァゴーシャやバーサが著名なサンスクリット戯曲作家として挙げられる。彼らの残した作品のうち現在にまで伝えられたものは数多いが、彼ら自身について明らかなことは少ない。
起源

インド演劇の源流は、『リグ・ヴェーダ』にまで遡る。『リグ・ヴェーダ』には対話形式[11]や場面形式の讃歌ほか、動物寓話(英語版)など他の文学形式を用いた讃歌が含まれている[2]。注目すべき『リグ・ヴェーダ』の挿話は、最初の人類についての話、10.10「ヤマとヤミーの対話」であろう。この物語では、ヤミー(ヤムナー)が彼女の兄であるヤマに対して子孫を残すための関係(近親相姦)を迫るが、ヤマは男らしくこれを拒むというものである。ヴェーダの祭式では、その多くで笛や竪琴といった楽器が必ずと言っていいほど使われている[12][3]。『シャタパタ・ブラーフマナ』(前800年-700年頃成立)13章2には、二人の役者によって演じられる劇形式で書かれたシュローカ詩節)が登場する[13]。初期の仏教文学は、インド演劇の存在を示す最古の証拠となった。パーリ語の『経蔵』(前5世紀から3世紀の間に成立)は、舞台劇を演じる俳優の一団(主演俳優によって率いられている)の存在について言及している。これらの演劇には舞踊が取り入れられていたようであるものの、舞踊、歌、物語の朗読とはまた別個のものとして列挙されている[14][注釈 3]

ビハール州のチランド遺跡(英語版)からは、おそらく演劇に用いられたであろう素焼きの仮面が出土している。層序学的な解析によれば、この仮面は紀元前3世紀から4世紀頃のものであり、この時代のインドにおいてすでに演劇がある程度の発展を遂げていたことを示唆している。また、仮面は鼻に装着できるように大きな作りをしており、演者は仮面の鼻の穴を通じて視野を確保できた。バラタムニ(英語版)(聖バラタ)は『ナーティヤ・シャーストラ』(『戯曲論』または『演劇典範』)において仮面について「プラティシルシャ」[注釈 4]と言及しており、これらの仮面はダイアデムとそれに沿った付属の髪を備えた、顔全体を覆うものだったようである[16][17]

紀元前2世紀頃にパタンジャリが著した『マハーバーシャ(英語版)』(『大注』または『大注解書』)は、サンスクリット戯曲の萌芽ともいうべきものについて最古の言及を行っている[7]。この文法書は、インドにおける舞台芸術(英語版)が始まった年代についての手がかりを与えている[7]

アレクサンドロス3世の東征を経て、インド亜大陸はギリシャ文化(英語版)と直に接触することとなった。この文化的状況は、古代ギリシア演劇がインド演劇の発展にどれほどの影響を与えたかについて、後世の研究者のあいだで学術的な議論を行わせることとなった[注釈 5][18]。たとえば、直接的な起源は明らかではないものの、サンスクリットにおいては楽屋と舞台の間を仕切る目的で使われた(カーテン)を指して「ヤヴァニカー(英語版)」と呼ぶ[19]
理論

伝統的に、サンスクリット文学における戯曲は、カーヴィヤ文学における「見るためのカーヴィヤ」として、「聴くためのカーヴィヤ」とされた抒情詩・叙事詩と並んで扱われた[20][21]


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