インドネシアの鉄道
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Indonesia
Argo Lawu train in Tambun.
運営
国営鉄道Kereta Api Indonesia (KAI)
統計
乗客数4億2900万人 (2019年)[1]
貨物輸送量 (トンキロ)9億9550万トン (2015/10)[2]
距離
総延長7,032キロメートル (4,369 mi)[3]
電化距離478キロメートル (297 mi)
軌間
主な軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
標準軌107.7キロメートル (66.9 mi)
電化方式
主電化方式1.5 kv直流架線
設備
最長トンネルSasaksaat Tunnel
949 m (3,114 ft)[4]
最長橋梁Cikubang Bridge
300 m (980 ft)[5]
最高標高848 m (2,782 ft)
最高地点Nagreg railway st.[6]
最低標高1 m (3 ft 3 in)
最低地点Surabaya Pasar Turi st.[6]
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ジャカルタ・ガンビル駅 (2011年)

インドネシアの鉄道(インドネシアのてつどう)は、主に国営企業クレタ・アピ・インドネシア (Kereta Api Indonesia; KAI)と、その都市鉄道子会社KAI Commuter、および空港鉄道子会社KAI Bandaraによって運営されている。インフラは国有であり、オペレーターが線路使用料を支払っている。

鉄道行政の所管は運輸省 (インドネシア)(英語版)である。
歴史
植民地時代

インドネシアの鉄道の歴史は、オランダ植民地政府が指導して設立された「蘭印鉄道」がジャワ島で1864年に建設を開始したのが始まりとされる。1867年8月にスマラン市内北部のケミジェン - タングン間約25 kmで運行を開始した。(日本の新橋 - 横浜間の開通は1872年)

以後南へ順次路線を延ばし、1870年にソロまで109 kmが開通、1873年ジョクジャカルタまで延長された。この区間は標準軌で敷設を行ったが建設費が膨大になる事が分かり、以後狭軌(1,067 mm)に軌間を変更された。1873年に開通したバタヴィアジャカルタ)-バイテンゾルフ(ボゴール)は狭軌で建設された。

植民地政府は民間企業による鉄道整備を期待したが、採算性の低い区間は民間が興味を示さなかったため1875年に「蘭印国鉄」を設立した。蘭印国鉄は路線の途切れた区間の建設を担当し、鉄道網の構築に貢献した[7]

旧蘭印鉄道本社 (ラワン・セウ)

オランダによる初めての駅

路線は1884年にバンドンまで延長され、1888年にはスラバヤからマディウン - ソロ(スラカルタ) - ジョグジャカルタへ路線が開通した。その後も延長され1894年にジャカルタ - スラバヤ間は蘭印鉄道と蘭印国鉄を乗り継ぐ事で結ばれた。その後ソロ - ジョグジャカルタ間は3線化され、1929年に狭軌に改軌されジャカルタ - スラバヤ間824 kmは直通列車により13時間で結ばれた。

スマトラ島でも1876年に蘭印国鉄の手でアチェ州に4 kmの軍事目的の鉄道が開通、1891年西スマトラのパダン市と郊外の鉱山を結ぶ鉄道が開通、1917年には軌間750 mmのアチェ鉄道(メダン - バンダアチェ)が開通した。

スラウェシ島でも1898年から1901年にかけてマドゥーラ蒸気軌道会社によりスラバヤからの連絡船の着くカルマ港から西部のバンカラン、東部のムカサンへと結ぶ路線が順次建設された。1922年、ウジュンパンタン(マカッサル) - タカラール間47 kmが開通したが1930年に廃線となっている。

また市内軌道としては1869年バタヴィアに馬車軌道が開通、1881年蒸気運転を経て1895年市内路面電車となったが1962年までに全廃された。1889年スラバヤに市内を走る蒸気機関車牽引の軌道が開通し1924年に電化され第2次大戦・独立戦争で被害を出しながらも運行を続けたが1968年1月廃止された。

1941年12月に勃発した太平洋戦争によって、交戦国であるオランダの植民地のインドネシアに侵攻し、支配下におさめた日本軍は一部の路線の整理や、1,067mmの狭軌への軌間の統一を行った[8]
インドネシア独立後

1945年の独立宣言によって国内の鉄道は全て国有化され、その後のオランダからの植民地解放を目指したインドネシア独立戦争を経ての独立やその後の混乱などによって鉄道は荒廃した。

1953年頃からはアメリカから輸入されたディーゼル機関車などによって無煙化も進んだが、今度は自動車の普及によって利用客が減少の一途をたどるようになった。このため1960年代から世界銀行や各国の支援によって近代化が進められ、ジャワ北線については日本の支援で1994年に軌道や橋梁の修復が概ね完了した。

1991年に国鉄(PJKA[注 1])は公社(Perumka[注 2]、ペルムカ)に移行。さらに、1999年6月に国鉄は政府が100%株式を持つクレタ・アピ・インドネシア(PT. Kereta Api; インドネシア鉄道会社)へ移管された。上下分離方式を採用し、軌道などインフラ部分は政府が、車両及び駅設備は鉄道会社側が保有および保守整備を行う。現在、バスなど多種交通機関に対する、競争力の強化が求められている。

なお、現在ジャカルタにおいて進められているMRT(Mass Rapid Transit)計画[注 3]では、PT. Kereta Apiは運営に関与せず、ジャカルタ特別州が鉄道運営会社を設立する予定である。
事業者

クレタ・アピ・インドネシア(PT Kereta Api Indonesia (Persero), KAI)- インドネシア全土の主要鉄道路線、ジャボデベックLRT(英語版)、パレンバンLRTの運営

ケレタ・コミューター・インドネシア(PT Kereta Commuter Indonesia)? KRLコミューターラインKAIコミューター・ジョグジャカルタ線の運営

PT Railink(インドネシア語版) - 空港連絡鉄道(ジャカルタ、メダン、ジョグジャカルタ)の運営

PT Kereta Api Logistik(インドネシア語版) - 鉄道貨物輸送の運営


PT Kereta Cepat Indonesia?China(英語版) - ジャカルタ・バンドン高速鉄道の運営

PT MRT Jakarta - ジャカルタ都市高速鉄道 (Jakarta Mass Rapid Transit)の運営

PT LRT Jakarta - ジャカルタLRT(英語版)の運営

PT Angkasa Pura II(インドネシア語版) - スカルノ・ハッタ空港スカイトレインの運営

運行概要
スマトラ島

現在、スマトラ島には北部(メダン)・中部(パダン)・南部(パレンバン)の3箇所にそれぞれ独立した鉄道が存在していて、PT. Kereta Apiでは、北スマトラをDivre I、西スマトラ(中部)をDivre II、南スマトラをDivre IIIが、各々管轄している。スマトラ島での鉄道はすべて非電化で、その殆どが貨物輸送である。

Divre I
メダンから南東へランタウ・ブラハット向かう266 kmの本線、その途中からのタンジュン・バライ支線21 km、シアンタール支線48km。メダンから北へ「バラワン港」への支線、アチェ方面へビンジャイへ20 km、かつてはここからアチェ鉄道(軌間750 mmのナローゲージ)が450 km先のバンダ・アチェまでつながっていたが1982年ごろまでに運行休止。再開計画もスマトラ島沖地震で一時凍結された。


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