インドネシアによる東ティモール侵攻
Operasi Seroja
時1975年12月7日
場所東ティモール(ティモール島)
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インドネシアの勝利
- インドネシアによる東ティモール占領(?1999年)
- 東ティモールにおける虐殺
ティモール民主連合(英語版)
ティモール民主人民協会(英語版)
支援国:
- オーストラリア[1]
- アメリカ合衆国[2]
東ティモール民主共和国
- 東ティモール独立革命戦線(ファリンティル(英語版))
指揮官
スハルト
マラデン・パンガベアン(英語版)
ウィジョジョ・スジョノ(英語版)[3]
ベニー・ムルダニ
ダディン・カルバディ(英語版)
プラボウォ・スビアント
ホセ・アビーロ・オゾリオ・スワレス(英語版)
フランシスコ・シャビエル・ド・アマラル
ニコラウ・ドス・レイス・ロバト(英語版)
戦力
35,000人20,000人[4]
被害者数
死亡(1974?1999)
- 正規兵2,100人、非正規兵1,500人[5]
死亡(1974?1999、一般市民を含む)
- 102,800人以上[6]
- 150,000人以上[7]
- 150,000?220,000人[8]
インドネシアによる東ティモール侵攻(インドネシアによるひがしティモールしんこう)は、1975年12月7日にインドネシア軍によって開始された侵攻である。
東ティモールは長らくポルトガル領であったが、1974年4月にポルトガルで生じた政変を機に独立の機運が高まり、1975年11月28日、東ティモール独立革命戦線が東ティモール民主共和国の独立を宣言。これに対しインドネシアが併合を目論んで行ったのがこの侵攻であるが、口実としては脱植民地化および反共主義を挙げていた。
侵攻後、インドネシア軍は速やかに東ティモールの主要都市を制圧し東ティモール暫定政府(英語版)を設置。1976年7月17日にはインドネシアの「第27番目の州」として正式に併合した。この併合を承認したのはオーストラリアのみで、国際的には無視された。国際連合は批判的な決議をおこなったものの具体的な動きはなく、結果24年間にわたって占領が続いた。1998年のスハルト大統領の失脚を契機として再び東ティモール独立に向けての動きがみられ、1999年の住民投票(英語版)を経て、2002年5月20日、東ティモール民主共和国が正式に独立した。
東ティモール受容真実和解委員会(英語版)の最終報告書では、1974年から1999年の占領期間に東ティモールにおける紛争関連で死亡した人数は、戦闘行為による死亡が約18,600人、病気や飢餓による死亡が約84,200人で、少なくとも102,000人、最大183,000人と推定している[6]。 1904年、ティモール島は東西に分割され西ティモールはオランダ領、東ティモールはポルトガル王国領となった。第二次世界大戦中は一時的に全島が日本の支配下となったが、大戦後は西ティモールはインドネシアの一部となり、東ティモールはポルトガル(エスタド・ノヴォ)領となっていた[9]。 1974年4月、宗主国ポルトガルで軍事クーデターが発生し政権が転覆(カーネーション革命)[10]。それまで弾圧されていたポルトガル共産党が政治の場に復帰することとなった[11]。 東ティモールでは即時独立を目指す東ティモール独立革命戦線(フレティリン)、ポルトガルとの連携存続を唱えるティモール民主連合
背景
ポルトガル新政権は内政問題やアンゴラ、モザンビークなどの旧植民地問題で手いっぱいであった[12]。1975年7月、ポルトガルは東ティモールの人々が将来を自決するための国民議会選挙を含むスケジュールを示した[2]。
1975年8月、フレティリンがクーデターを画策しているとのインドネシア当局筋からの情報を受けたUDTがクーデターを試み、これをきっかけとして内戦状態となった。結果はフレティリンが勝利し、9月上旬には東ティモール全土を掌握した。ポルトガルは総督ほか行政官や軍人がディリ沖合の小島へ退避し、東ティモールにおける統治能力を喪失していた[13]。11月28日、フレティリンは東ティモール民主共和国(英語版)の独立を宣言[2]。この独立はモザンビークなどの旧ポルトガル植民地4か国と中国が承認した[13]。敗れたUDTはインドネシアへの併合推進の立場に転向した[13]。