インドの美術
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タージ・マハル 1643年サーンチーの第1ストゥーパのヤクシー像(東門持ち送り)1世紀シヴァ・ナタラージャ(踊るシヴァ) 青銅製 チョーラ朝(12世紀) ニューデリー国立博物館カジュラーホー、カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺外壁の女性像

インドの美術(インドのびじゅつ)では、インダス文明に始まるインド亜大陸南アジア)の美術について概観する。
概論サーンチー ストゥーパ(第1塔)と東門
「インド美術」とは

「インド美術」とは、近代以前に「インド」(英:India)と呼ばれていた地域の美術を指す。ここで言う「インド」とは、1947年にイギリスから独立した現代国家としてのインドのみならず、パキスタンバングラデシュなど周辺の地域を含めたインド亜大陸全体を指す[1]。インド亜大陸に残る古代から中世の美術作品はその大部分が宗教美術、すなわち、インド発祥の3宗教(仏教ジャイナ教ヒンドゥー教)と外来のイスラム教にかかわる美術である[2]。現存する古代・中世インドの絵画や彫刻は、ストゥーパ(仏塔)、寺院などの建造物や石窟寺院を荘厳・装飾していたものが大部分であり、インド美術史においては建築と絵画・彫刻などの美術品とは一体をなす不可分のものであった[3]。このため、本項では絵画、彫刻とともに各時代の建築作品についても扱うこととする。

現存する古代・中世の作品に関するかぎり、インド美術はそのほとんどが宗教美術であるが、インドの長い歴史と過酷な気候条件のなかで失われた作品の多かったことも考慮しなければならない。古代の文芸作品のなかでは、宮廷の華麗な様子が描写されており、古代の仏教遺跡に残る浮彫には世俗建築の描写がある。また、古代の石窟寺院には、天井の形態などにその当時存在していた木造建築の形を忠実に模したものがある。こうした世俗建築や木造建築が古代インドに存在したことは確かであり、それらを装飾した世俗的な絵画も存在したはずだが、インドの過酷な気候条件のもとではそれらは長く存続できず、結果的に耐久性の高い石材で造られた寺院、ストゥーパ、石窟などの宗教施設と、これらと一体となった絵画や彫刻が今日まで残された[4]

西洋の美術や建築がたとえばブルネッレスキ、ブラマンテ、ミケランジェロといった建築家や美術家の個人名とともに語られ、彼らの伝記もかなり明らかであるのに対して、近代以前のインド美術史においては建築や美術が作家の名前とともに語られることはほとんどない。世界建築史上の傑作と称されるタージ・マハルについても、ウスタード・アフマド・ラホーリーという建築家の名前が明らかになったのは20世紀に入ってからである[5]。さらに、このラホーリーも多くの工匠が持ち寄った設計をとりまとめる役割にすぎなかったとする説がある[6]。インドの寺院は建築家や彫刻家のみならず、石工、壁塗りの工人など多くの職人集団による共同作業によって建てられた。彼らは芸術家ではなくギルドの一員として働いたのであり、彼らのように自分の手足を動かして働く人々は社会的地位も低かった。こうしたことが、インドにおいて建築家や美術家の名前があまり伝わっていない理由である[5]

現存する古代・中世インドの彫刻作品は主として石造であるが、他にストゥッコ、テラコッタ、ブロンズなどの作品もある。絵画については、経典の挿絵や中世後期のミニアチュール(細密画)を除くと、古い遺品はほとんど石窟の壁画に限られている。代表的なものとしては西インドのアジャンター石窟にある古代後期(5 - 6世紀)の壁画が挙げられる。同石窟には古代初期(西暦紀元前後)の壁画もあるが、褪色・剥落が著しい。16世紀以降にはムガル帝国(イスラム王朝)とヒンドゥー教勢力の双方で写本装飾などの細密画が発達した[7]

工芸品の分野では古い遺品は少なく、古代・中世の工芸品で現存するものはほぼ出土品に限られる。近世にはダマスク象嵌細工、エナメル細工、象牙細工などに見るべきものがある。インドでは中国など東アジアと異なり陶磁器の発達は遅れたが、近世にはイラン風の施釉陶器などがみられる。染織工芸では更紗(さらさ)、綴織、刺繍など、木工の分野では楽器、檀木製の家具などに見るべきものがある[8]。黄金製の装身具や金属製の器は、溶かして再利用されたことも、古い工芸品が残っていない一因である[9]

以下、本項で単に「インド」というときは、特に断りのない限り、現代国家としての「インド」の区域ではなく、「インド亜大陸」ないし「南アジア」に該当する地域のことを指す。

地名、寺院名などの固有名詞のカタカナ表記については、参考文献における表記に基づく。

多様性のなかの統一現代インドの地方行政区画 マディヤ・プラデーシュ州(14)、マハーラーシュトラ州(15)、オリッサ州(20)、タミル・ナードゥ州(24)などに遺跡が多い。インドの自然地理 東西に伸びるヴィンディヤ山脈が広義の南北インドの境となる。南インド(半島部)はデカン高原が大部分を占め、その東西に東ガーツ・西ガーツの両山脈が南北に伸びる。インドの言語分布 黄 - インド・アーリア語族、青 - ドラヴィダ語族、紫 - オーストロ・アジア語族、赤 - チベット・ビルマ語族、

インドの建国精神は「多様性のなかの統一」(unity in diversity)という言葉で表現されている[10]。この言葉が端的に示すように、多様な民族、文化、宗教、言語などが共存しつつゆるやかな統一体を形成しているのがインドの特色である。インド亜大陸の面積は、ロシアを除いたヨーロッパ全体のそれに匹敵する[11]。インド亜大陸は、ユーラシア大陸からインド洋に突き出た半島状の地域である。この半島状の地域は、地図上では南を下にした逆三角形を呈するが、三角形の二辺にあたる東と西はそれぞれベンガル湾アラビア海に面し、北にはヒマラヤカラコルムヒンドゥークシュの山脈が聳え、アジアの他の地域とは地理的に隔てられている[12]。インドはその広大さゆえに民族や文化のみならず、自然地理的・気候的条件の面でも変化に富んでいる。地域の大部分は酷暑と雨季を伴う熱帯に属するが、西北部には降水量のきわめて少ないタール砂漠がある。南インドが常夏の国であるのに対し、北インドには冬があり、年間を通じての寒暖の差が大きい。最北部には万年雪を戴く山岳地帯もある[13][11]

ヒンドゥー教の寺院では主神たるシヴァヴィシュヌをはじめとしてさまざまな神々が共存している。ヒンドゥーの思想では、これらの神々は究極的には一つの存在であり、それを「多のなかの一なるもの」と表現する。ヒンドゥー教では、究極の実在は一つであるという認識に立ちつつ、その実在がさまざまな形や名称で現れることは許容されている。こうした思想はヒンドゥー教以前のヴェーダ時代に成立した聖典『ウパニシャッド』のなかにすでにみられるものである[14]

広大なインドでは多くの言語が使用されているが、それらの系統は北インドにおもに分布するインド・アーリア語族と、南インドにおもに分布するドラヴィダ語族に大別される(他に、オーストロ・インド語族およびチベット・ビルマ語族に属する言語がおもに東インドに分布する)。インド・アーリア語族はヨーロッパ諸語と同根の印欧語族に属するが、ドラヴィダ語族はそれとはまったく系統を異にする言語である。インド=ヨーロッパ系の言語を話す、アーリア人と呼ばれる人々が北からヒンドゥークシュ山脈を越えて西北インドへ進出したのは紀元前1500年頃のことであった(アーリア人の進出)。一方、ドラヴィダ系の言語を話すドラヴィダ民族はそれ以前からインド亜大陸に住んでいた人々であり、四大文明の一つであるインダス文明の担い手であったともいわれる。このドラヴィダ民族もさらに古い時代(紀元前3500年頃)に中央アジアないし西アジア方面からインドへ移り住んだ人々であると推定されている[15][16]

インドの地域区分については、東西に伸びるヴィンディヤ山脈ナルマダー川を境にそれ以北を北インド、以南を南インドと大まかに分ける場合があり、他に東インド、中インド、西インド、西北インド(現代のパキスタン)等の区分も用いられる。北インドは西にインダス川、東にガンジス川(ガンガー)が流れ、これらの河川が形成した沖積平野であるヒンドゥスターン平野が広がる。インダス川流域は四大文明の一つであるインダス文明が栄えた地で、古くから外来文化が流入した地であった。一方のガンジス流域はヒンドゥー教の源流であるヴェーダの宗教(バラモン教)や、仏教ジャイナ教など、インド固有の宗教を生み出した地であった。南インドはその大部分をデカン高原が占める。現代のマハーラーシュトラ州にあたるデカン高原北部から西海岸に至る地域は古来海外との交易で栄えた地で、多くの石窟寺院があり、おもにインド・アーリア系の言語が話されている。


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