イントレピッド_(空母)
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イントレピッド
1944年6月の艦影
基本情報
建造所ニューポート・ニューズ造船所
運用者 アメリカ海軍
艦種航空母艦 (CV) →攻撃空母 (CVA) →対潜空母 (CVS)
級名エセックス級
愛称.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

ドライ「アイ」 (Dry "I")

イービル「アイ」 (Evil "I)

デクリピット(Decrepit=よぼよぼ)

ファイティング「アイ」(Fitghting "I")

モットーIn Mare In Caelo
艦歴
起工1941年12月1日
進水1943年4月26日
就役1943年8月16日
退役1974年3月15日
除籍1982年2月23日
その後博物館船としてニューヨークで公開
要目
基準排水量27,100 トン
満載排水量36,380 トン
全長872フィート (266 m)
水線長820フィート (250 m)
最大幅147フィート6インチ (44.96 m)
水線幅97フィート (30 m)
吃水28フィート5インチ (8.7 m)(基準)
34フィート2インチ (10.4 m)(満載)
主缶B&W製 水管ボイラー×8基
主機ウェスティングハウス蒸気タービン×4基
出力150,000馬力 (110,000 kW)
推進器スクリュープロペラ×4軸
最大速力33ノット (61 km/h)
航続距離20,000海里 (37,000 km)/15ノット
乗員士官・兵員2,600名
兵装

5インチ連装砲×4基

5インチ単装砲×4基

40ミリ四連装機関砲×8基

20ミリ機関砲×46基

装甲

舷側:2.5?4インチ (64?102 mm)

飛行甲板:1.5インチ (38 mm)

格納甲板:2.5インチ (64 mm)

水密隔壁:4インチ (100 mm)

搭載機90 - 100機
その他艦載機用エレベーター(中央2基、舷側1基)
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イントレピッド(USS Intrepid, CV/CVA/CVS-11)は、アメリカ海軍航空母艦エセックス級航空母艦としては5番目に就役した。その名を持つ艦としては4隻目。太平洋戦争大東亜戦争)ではレイテ沖海戦などに参加、その後マーキュリー計画ジェミニ計画で宇宙船の回収母艦を務め、ベトナム戦争にも参加した。2021年現在はニューヨーク市博物館船イントレピッド海上航空宇宙博物館)として公開されている。

幾度も損傷して「Dry I」と揶揄されるほどドック入りも多く、「Evil (不吉な) I」「Decrepit(よぼよぼ)」などとも呼ばれていた[1]が、これは激戦をくぐり抜けてきた証でもあり、「Fighting I」と讃えられた武勲艦である[2]
艦歴
第二次世界大戦

イントレピッドはバージニア州ニューポートニューズニューポート・ニューズ造船所で建造され、第二次世界大戦真っ只中の1943年4月26日にジョン・ハワード・フーヴァー夫人によって命名、進水した。同年8月16日、トーマス・L・スプレイグ艦長の指揮下で就役し、カリブ海で慣熟訓練を行う。太平洋戦線で激戦が続く1944年2月17日トラック島空襲に参加。同日夜、日本軍機の雷撃で魚雷1本が命中して大きな損害を被った。1944年11月25日、特攻機の突入を受ける

1944年10月にレイテ沖海戦に参加し、戦艦「武蔵」をはじめとする日本海軍の主力艦の撃沈に貢献した。しかし10月30日に特攻機が銃座に激突し12名が死亡、6名が負傷した。乗員による熟練したダメージコントロールでまもなく発艦作業を再開する。同年11月25日、2機の特攻機が激突、69名が死亡する。艦の推進力には影響が及ばず、2時間以内に消火作業を完了した。

翌1945年には、硫黄島上陸作戦の支援、沖縄戦アイスバーグ作戦)、日本本土空襲作戦に参加。沖縄水上特攻作戦に出撃した戦艦「大和」以下の日本海軍第二艦隊(第一遊撃部隊)に対する空襲作戦にも参加し、「大和」の撃沈に貢献した。その間、3月18日と4月16日の二度にわたって神風特別攻撃隊特攻機の体当たり攻撃により損傷し、修理のために本土まで後退を余儀なくされる。修理完了は6月になったため、結局この沖縄戦が「イントレピッド」の最後の戦域となり、8月6日のウェーク島空襲が太平洋戦争における最後の戦闘となった。8月15日日本連合国に対して降伏すると、8月21日に占領の支援を開始する。12月2日に横須賀を出港、15日にカリフォルニア州サン・ペドロに到着する。
大戦後の活動SCB-27C改装を実施中(1953年)

1952年ジェット機運用のためのSCB-27C改装を受け、再就役時に攻撃空母(CVA-11)に艦種変更された。1956年にはSCB-125改装を受け、アングルド・デッキ装備等によりさらに能力を向上させた。1950年代末期には、対潜水艦作戦支援空母(CVS-11)に艦種変更された。1965年にはジェミニ計画の支援に就き、大西洋上で着水した宇宙船ジェミニ3号を回収している。その後、FRAM改装を受け、1966年にはベトナム戦争に投入され、A-4艦上攻撃機などを搭載し、対潜支援空母ながらも軽攻撃空母として運用された。

ベトナム戦争参加中の1967年11月、神奈川県横須賀に寄港中の同艦から4人の兵士がベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)と反戦脱走兵支援組織の援助により脱走し、スウェーデンに亡命する事件が起きたことでも知られる[3]

「イントレピッド」は1974年3月15日に退役した。第二次世界大戦の戦功で5つの従軍星章、ベトナム戦争の戦功で5つの従軍星章を受章した[4]
海上航空宇宙博物館として博物館として保存(2013年撮影)

1982年8月、退役後のイントレピッドを博物館として再利用することが決定され、船体はニューヨーク市マンハッタン中心部西46番通り(West 46th Street)の西端でハドソン川に張り出している86番桟橋(Pier 86)に係留され、「イントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea-Air-Space Museum)」として生まれ変わり、多くの観光客を集めるマンハッタンの名所のひとつとなった。

しかし築80年以上になる86番桟橋は老朽化が著しく、構造強度の劣化から崩壊の可能性が指摘されると、2006年にはこの86番桟橋を近代的なものに改築するのと同時に、「イントレピッド」にも補修改修工事を施すためにハドソン川を約8キロメートル下ったニュージャージー州ベイヨンのドライドックへ一時移動させることになった。


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