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自主映画(じしゅえいが)とは、映画の種類を指す。自主制作映画(じしゅせいさくえいが)、インディーズ・ムービー、オーダーシネマ、インディペンデント映画、同人映画などとも呼ばれる。
日本では商業映画で無いもの、欧米ではハリウッドのメジャースタジオ6社の傘下に属していないものや単に自己資金で制作されたもの(ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』新三部作など)である。 日本における自主映画(じしゅえいが)は、商業映画ではない種類の映画を指す。自主という言葉が含まれるが特に意味は無い。 学生が制作したものは学生映画、フィルムではなくビデオ撮影されたものは自主制作ビデオといったように、範囲を区分した呼び方をされる場合もある。アニメーション作品については自主制作アニメとも言われる。作品権利などが制作者(主に監督)にあるので、自主映画といわれる。 自主映画のみを対象とした映画祭も存在し、ぴあフィルムフェスティバル、インディーズムービーフェスティバルなどがある。 自主映画の多くは、大学や社会人の同好の士による映画サークルや社会人団体、映像系学校の学生など、アマチュアのスタッフ・キャストによって制作される。制作団体としては、大学や同人の映画サークルを筆頭に、西東京を拠点とする「映創会」などが知られている。また、最初は自主映画の世界で名を知られ、後にプロとして成功した映画監督や映像作家も少なくない。また自主映画で実力や個性が評価され、テレビドラマや劇場映画でも活躍するようになった俳優も存在する。自主映画出身の映画監督や俳優の中には、プロとして活躍しながら自分が作りたい映画を作るため自主映画製作に取り組む者もいる。 映画が発明されたばかりの19世紀末から20世紀初頭にかけては、興業としての映画は未成熟であり、自主映画と商業映画(劇場映画)の境界は存在していなかったといえる。初期の映画は主に記録と報道のために用いられていたが、この時代から個人でカメラを所有し、フィルムを購入できる富裕層の中に、自分の周囲の生活や各種行事、また町村の風景等を撮影する者が存在した。これが自主映画の始まりといえる。現在、映像アーカイブとして保存されている明治・大正期の映像の中には、当時のアマチュア映画愛好家が撮影したフィルムも多い。当初は主に16ミリフィルムが使われていたが、大正末期に9.5ミリが登場し、昭和7年(1932年)にはさらに高画質・低価格の8ミリフィルムが登場すると、個人による映画撮影が手軽になるとともに、16ミリや35ミリのフィルムで撮影される劇映画やニュース映画のような商業映画との境界が明確になり、「小型映画」「家庭映画」と呼ばれる自主制作映画の概念が成立していった。 第二次大戦後、8ミリカメラやフィルムが安価かつ高性能になると、アマチュアが街や野山に出てロケをしたり、地域での日常生活を長期に渡って撮影したりすることが可能になる。その結果、野生の動植物の生態や、貴重な伝統行事や伝統産業などの記録、身体障害者の日常生活や、被爆者など戦争体験者の証言の記録などの社会問題の提起など、商業映画では制作困難な映画作品がアマチュアの手で作られるようになる。1960年代には大林宣彦、高林陽一が作品を発表している。 1970年代に入ると、1965年に提供開始された向汎用の8mm映画システムのシングル8・スーパー8が、一般的な家庭でもホームムービー用に使用される様になり、そのカメラなどの機材を使用して、学生世代による若い感性の自主映画が次々と発表されていった。
日本における自主映画
制作者
自主制作作品の歴史
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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