インディアン戦争
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インディアン戦争

インディアンを追撃するアメリカ騎兵の想像図

1622年-1890年
場所アメリカ合衆国カナダ
結果アメリカ合衆国とカナダの勝利。アメリカとカナダの主権が全国土に及び、インディアンは保留地に追いやられた。

衝突した勢力
インディアン アメリカ合衆国
カナダ
被害者数
数百万人以上資料なし

インディアン戦争(インディアンせんそう、: Indian Wars)は、1622年から1890年の間の、北アメリカで白人入植者(インディアンが呼ぶところのwhite man)とインディアンの間で起きた戦争の総称。初期のころからインディアンと白人入植者の小競り合いが続いていたが、白人入植者の増加とともに列強による植民地戦争とも絡みながら、大規模化していった北米植民地戦争である。この戦争は、白人、主にキリスト教徒によって行われた大量虐殺民族浄化強制移住であった。これらの戦争の影響により、インディアンは今日でも貧困アルコール依存症などの問題に苦しみ続けている。また、インディアンはブラックヒルズなど白人に奪われた土地の返還を求めて闘い続けているが、アメリカ合衆国政府や政府を支持する人々は現在でも土地を返還する意向を示していない[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]
概要

そもそもの白人とインディアンとの戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸に始まるものである。コロンブスは艦隊を率いて、中米のインディアン諸部族を数年にわたり虐殺し、その人口を激減させた。インディアンたちを黄金の採集のために奴隷化し、生活権を奪ったためにインディアンたちは飢餓に陥り、疫病が蔓延し、その数をさらに減らした。だが白人のもたらした疫病が中米のインディアンを減らしたのではなく、コロンブスによる大量虐殺が、疫病によるインディアンの激減を招いたのである[2]
戦争

アメリカ独立戦争以後、「豊かで安い土地」を求めて白人入植者が西進するようになると、当然そこに住むインディアンは邪魔者となり、これを排除しようとする合衆国政府とインディアンの撲滅戦争と化した。インディアンは領土を追われ、連邦政府が信託保留する土地、いわゆる「保留地 (Reservation)」に押し込められることを強要され、激しく抵抗するようになる。

イギリスがアメリカへの入植を始めた1610年代1620年代は平穏に過ぎたが、ピクォート戦争の起こった1637年頃から、入植地の安全を図るためと、さらなる入植地の拡大のために、植民地の白人たちはインディアン部族間の争いを利用し、代理戦争を行わせるようになった。この戦争は17世紀フィリップ王戦争ウィリアム王戦争および18世紀初頭のアン女王戦争)からウンデット・ニーの虐殺1890年にアメリカの辺境が「消滅」するまで、インディアンの土地を白人入植者のために没収し、インディアンを征服して白人に同化させると同時に、インディアン保留地へ強制移住させる、という結果になっていった。

これら一連の戦争でアメリカ側とインディアン側の受けた損失については様々な統計が示されてきた。最も信頼に足る数字はグレゴリー・ミクノなどによる交戦記録を厳密に照合したものであり、1850年から1890年の間だけで、21,586人の市民と兵士が死亡、負傷、または捕虜になったとしている。[11]他の数字としては、ラッセル・ソーントンなどのやや大雑把で関係性の薄い政府の資料から外挿したもので、45,000人のインディアンと19,000人の白人が殺されたとしている。この後者の推定値の中には、辺境の虐殺によって非戦闘員がしばしば殺されたので、双方の女性や子供の犠牲者も含まれている。[12]その他にも様々な著者が、少ない者では5,000人、多い者では50万人という数字を上げている。ここでの議論に含まれていないのは、双方の残虐さである。インディアンはその残酷な戦い方で、アメリカは破壊的な作戦実行で示した残虐さは、毎年のように新聞、記録保管所、外交記録およびアメリカ独立宣言(...(イギリスは)辺境の住人、戦い方を知っている残酷なインディアンに、年齢、性別や状態に拘わらず見境無い破壊を奨励している)の中で指摘されてきた。

インディアン戦争は小さな戦争の連続であった。インディアンはそれぞれの歴史を持つ様々な集団であった。戦争の間を通じて、インディアンは「白人」のように一括りで呼べるような単一の民族では無かった。様々なやり方で築かれた社会に住み、地域的なレベルで戦争と和平の決断を下した。ただし、イロコイ連邦や、スー族シャイアン族アラパホー族の三部族同盟、またテカムセのような調停者によって実現した一時的な同盟のように、公式の同盟を組んで共闘することが多数見られた。
時代区分

インディアン戦争は大きく分けて、次の4つの時代区分に分けられる。
最初の時代は白人がアメリカに入ってきて手探りでインディアンとの共存を探った時代である。

次の時代はアメリカ合衆国が誕生してそれに続く期間であり、インディアンからの激しい抵抗があったもののアメリカの文化に同化しないインディアンが排除されて、
ミシシッピ川から東にはほとんどインディアンの居住地が無くなった時代である。

3番目の時代はミシシッピ川の西に白人の入植が進み、アメリカ合衆国の国力が充実してきてアメリカ西部のインディアンが屈服させられていった時代である。

4番目は、20世紀に入ってインディアン条約が合衆国側から破棄され、部族そのものが消滅させられ始めた時代である。

現代

クレイジー・ホースらが参加した、インディアンの連合軍がカスター中佐の第7騎兵隊を撃退全滅させるなどの戦果もあったが、ジェロニモの降伏やウンデット・ニーの虐殺以降、インディアンによる軍事的な反乱はなくなった。代わって、20世紀になってからの「レッド・パワー運動」に代表される、権利回復要求運動が現代のインディアン戦争となった。黄金に代わってウラニウムや石炭、水といった保留地の地下資源が、合衆国の収奪対象となった。現代の「インディアン戦争」は、地下資源の収奪と環境汚染、そして「西部劇映画」や「インディアン・マスコット」問題に象徴されるメディアやスポーツにおける歪曲された民族イメージの概念固定化が大きな問題となっている[13]

1973年にスー族保留地内の「ウンデット・ニー」で、オグララ・スー族と「アメリカインディアン運動 (AIM)」が同地を占拠し、「オグララ国」の独立宣言を行った「ウンデッド・ニー占拠抗議(英語版)」(のちの連邦裁判で無罪判決を受けた)では、全米からインディアンが応援参加し、非武装のインディアンたちに対して合衆国とサウスダコタ州が戦車や戦闘ヘリを投入した武力鎮圧となった。

2003年、100年近くに及ぶインディアンたちの要求運動によって、「リトルビッグホーンの戦い」の主戦場が「カスター国立記念戦場」から「リトルビッグホーン国立記念戦場」に名称変更された。同時に「インディアン戦争」を戦ったインディアンたちの「インディアン記念碑」が建立され、地図と解説の書かれた石壁が設置された。この石壁には次のような文言が彫り込まれている。

“The Indian Wars Are Not Over.”(インディアン戦争は終わっていない)
戦争の根本要因

この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2020年3月)

コロンブスの上陸以来、白人たちはインディアン部族が、アフリカの部族社会のような「酋長が支配する首長制の部族社会である」と勘違いしていた。実際にはインディアンの社会は完全合議制民主的社会であり、「王」や「首長」のような個人の権力者は存在しない。「大いなる神秘」のもと、人と動物すら明確に区分されず、平等に共有されるのがインディアンの社会であり、まして大地は誰のものでもなかった。
土地に関する誤解

合衆国は植民地化を進めるにあたり、まずインディアンから領土を「購入」しようとし、「物品」と引き換えにこれを行った(つもりだった)。しかし、これは、インディアンの共同体から見れば「白人が贈り物をして、ここに住まわせてくれと言って来た」ということになる。白人は「ここから出て行ってくれ」と言ったつもりだが、インディアンはこれを理解していない。元より彼らに「土地を売り買いする」という文化習慣が無いからである。

インディアンは和平を結ぶ際、和平の「ロングハウス」、「ティーピー」などで「会議の火」を囲んで車座になり、「聖なるパイプ」で煙草を回し飲みし、「大いなる神秘」に和平を誓う。全ての存在が「大いなる神秘」の中にあると考えるインディアンにとって、「大いなる神秘」との盟約であるこの行為を破ることは絶対にあってはいけない誓いである。

白人たちは上記にあるように「土地を買った」つもりでいるので、この誓いを破った。インディアンを追い出そうとし、あまつさえ彼らを武力で虐殺したのである。「インディアン戦争」は起こるべくして起こったのだ。
部族の制度に関する誤解

インディアン戦争の中で、白人たちは酋長を部族の代表、部族長だと考えていた。「部族民たちが敬愛する大戦士」を大酋長だと思い込んで彼らをそう呼んだ。白人には大戦士も酋長も見分けがつかなかった。酋長(Chief) とは実際には、部族の調停者、世話役、あるいは奉仕者であって指導者でも部族長でもない。インディアンの社会に指導者も部族長もいない。個人が権力を持つ上意下達のシステムを持たないのである[14]

しかるに白人たちはインディアン戦争を行うにあたって、酋長あるいは大戦士を部族長だと思い込み、和平の調停や交渉の責任者とみなした。酋長の署名として「×印」を書かせ(インディアンは文字を持たない)、これを「部族の総意」と解釈したのである。もちろんこれは全くの誤解であって、合議を経ていない部族の総意はあり得ず、インディアンの戦士たちは戦いをやめなかった。

またインディアンの戦士団を白人は「司令官が統率する軍団」だと勘違いしていた。これもまた全くの思い違いで、インディアンの戦いは自由参加であって、彼らは軍でも兵でもなく、誰に率いられるような集団でもない。合衆国はしばしば「インディアンが協定を破って攻撃した」としているが、協定を破っているのは白人側だった。

インディアンの社会は細かいバンド(集団)に細分されており、それぞれが自治を保ち自分たちの判断で動いていた。すなわちインディアンの部族は一枚岩ではなかった。これをまとめて従わせようとする合衆国の考え自体に無理があった。インディアンの部族で、最終的な判断を決めるのは長老と酋長たちの大合議だけである。これは現在のインディアン社会でも変わらない。

こうして「インディアン戦争」において合衆国は本来は交渉役である酋長を「戦争の司令官」だと誤解し、彼らの殺害に力を注ぎ彼らを捕らえては死体を散々に凌辱した。根本的に白人たちはインディアン文化を勘違いしたまま延々とインディアンの虐殺を繰り返したのである[15]
白人の植民期

1620年ピルグリム・ファーザーズアメリカ東海岸プリマス植民地に到着した頃は、インディアンと白人の友好関係があった。厳しい冬を越すために、むしろインディアンに助けられて入植者が定着できたという面もあった。ただし、全ての地域でインディアンが友好的に白人を迎えたわけではなく、インディアンに様々な部族があったように、白人を迎えたインディアンの対応は様々であり、16世紀前半のフロリダのように有無を言わせず退去させられた例もあった。17世紀前半のフランスの場合は、敵対するインディアンの一方に荷担して、まだ銃火器を持たないインディアンを圧倒するようなことがあった。

インディアンは、その狩猟生活に貴重な道具となった銃を供給してくれ、かつ様々な商品を交易したり贈り物を届けてくれる白人とは友好的な関係を保った。しかし、いち早く銃を持った部族は他の部族を圧倒する力を持つようになった。17世紀前半のイロコイ連邦がまさにこの典型的な例であり、アメリカ北東部のかなり広い範囲を勢力下に収めることになった。

ジェームズタウンとイギリス人が名付けた最初期の植民地では、植民請負人ジョン・スミスが、飢えた入植者の食料確保のために、各地のインディアンの村を襲い、酋長を人質にとり、物品・食料を強奪した。スミスはポウハタン酋長を「ポウハタン族の皇帝である」と大英帝国に出鱈目な報告を行い、対インディアン政策を誤解の下に進めさせるきっかけを作っている。

一方で、白人の持ち込んだ様々な疫病は、免疫を持たないインディアン部族を激減させ、その力を削いでいった。


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