インディアン寄宿学校(インディアンきしゅくがっこう、Indian boarding school)とは、19世紀後半から20世紀にかけて主としてアメリカ合衆国やカナダで作られたインディアンの若年者を同化教育(Americanization)するための私立施設。 1879年11月1日、インディアン戦争に従事した将校、リチャード・ヘンリー・プラット
概要
アメリカ
その後、多くアメリカ中で設立された寄宿舎学校はカーライルと同様に「工業学校」と名付けられたものが多く、リザベーション(保留地)に暮らす先住民の子どもたちを、親と先住民共同体から強制的に引き離し、彼らの宗教や習慣、言語を禁止して、「内なるインディアンを殺し、人間を救う」を合言葉に、キリスト教や英語教育、職業教育などを行った。証言によると、「工業学校」という名の通り、数学の基礎や品詞など英語文法の基本よりも、大工や家政などに多く比重をおいた職業訓練であったという[3]。
こうした方針はインディアン民族のアイデンティティに深刻な影響を与えるもので、2000年にインディアン管理局[4](Bureau of Indian Affairs、BIA)局長ケビン・ガバー(Kevin Gover)はBIAの公式な文書でこれを「アメリカ合衆国によるインディアン部族に対する民族浄化である」と記載している。
その影響については20世紀から21世紀にかけて、アメリカでドキュメンタリーの題材として盛んに採りあげられた。
アーカンソー州に本部を置くインディアン組織「アメリカインディアンの生得権の支援センター(The American Indian Heritage Support Center)」は、彼らの公式サイトで「インディアン寄宿学校」についてこう述べている。「インディアン教育政策は歴史的に、 部族の主権とインディアンの文化を破壊するために西洋人が設立し行使した、『孤立と同化のための兵器』です。 部族の主権とインディアンの文化を破壊することによって、これらの教育政策は本質的に、インディアン個人個人を滅ぼそうとしたさまざまな政策のうちのひとつなのです。」 参考:カナダの先住民寄宿学校。カナダにおいては、アメリカよりも早く、1840年代に「インディアン寄宿学校」が発足している。成り立ちや目的は、アメリカと同じく民族浄化のためのもので、カナダ最後の「インディアン寄宿学校」が閉鎖されたのは、1996年になってようやくのことであった。 「カーライル・インディアン工業学校」は、対大平原部族戦に従事した軍人、リチャード・ヘンリー・プラット少尉の、内務省の出先機関BIAへの働きかけで、元軍事施設を利用して、1884年にペンシルベニア州カーライルに創設された「インディアン寄宿学校」の第一号である。 1875年、カイオワ族、コマンチ族、シャイアン族、アラパホー族他の対白人抵抗戦の指導者・戦士たちはフロリダ州のセントオーガスティンにあったマリオン砦
カナダ
カーライル・インディアン工業学校「カーライル・インディアン工業学校」の男子生徒たち、1879年
BIAは、このプラットの思いつきに賛同し、拘置所が元となったカーライル校をモデルに、全米各州にインディアン寄宿学校が設けられた。1887年、BIA局長は以下の通達を出した。「インディアン寄宿学校は英語のみにて教育を施すべし。インディアン語は一切を禁ず。インディアン児童は、キリスト教各派の教えにより文明の何たるかを学ぶべし。インディアンの宗教は一切を禁ずる」
プラットの掲げた「生産的なアメリカ市民」という美辞麗句の裏には、「義務」の強制と同時に「権利」の剥奪をも伴っていることに留意すべきである。かつてインディアン側が白人子女をさらい、部族員として教育した例は多いが、これはほとんど例外なく米国陸軍の派遣によって奪還された。異民族間で行われたこの施策であるが、あくまで白人側からの一方的な図式で成り立ったものであった。
インディアン寄宿学校での生活カーライル・インディアン工業学校の生徒たち、1879年
「インディアン寄宿学校」での生活は、以下のようなものであった[5]。
親元から引き離されたインディアンの5歳から10歳までの児童たちは、「黄色いバス」に乗せられ、わざと彼らの保留地から数百キロ離れて選んだ地に入学させられた。入学するとまず身体を洗われて部族の衣服を脱がされ、制服に着替えさせられ、髪を短く切られた。インディアンにとって髪を切るのは、身内が亡くなった時である。ミネソタ州の「パイプ・ストーン寄宿学校」に入れられたデニス・バンクスはこのときの自らの体験として、「みんな家族が死んだと思って泣き叫んだ」と回想している。
部族の名を名乗ることは禁じられ、「ハンフリー」や「マーガレット」といった白人の名前のいくつかの候補の中から適当なものをつけられた。日常生活は朝6時から午後10時までで、軍服での行進が日課にあり、軍事教練を基本にした規律で縛られた。教員は白人だった。学習内容は、読み書き算数のほか、男子は大工仕事や農業、女子は白人料理と裁縫といった手内職である。このほとんどは保留地では何の役にも立たなかった。課目は過密であり、生徒に考える余裕を持たせないように図られていた。カナダの「カペル・インディアン寄宿学校」。インディアン生徒の親たちは施設の立ち入りを禁じられ、子供に面会するためには学校の外で野営しなければならなかった(1885年)
聖書の暗記とキリスト教の祈祷が強制され、部族の信仰は弾圧され禁止された。英語以外の言葉で話すことは禁じられ、話せば「汚い」言葉を話した罰として教師に石鹸を食べさせられたり、石鹸で口をゆすがされたり、ビンタを食うなどした。もちろん、彼らの幼い心は深い心的外傷を負った。白人の食べ物しか食べさせられず、インディアンの伝統食は許されなかった。児童生徒たちに許された娯楽はフットボールや野球といった白人の遊びだけで、伝統的な遊びは許されなかった。
学校によって異なったが、学年は最大で12学年まであり、学期末の夏休みにのみ故郷の保留地への帰省が許されたが、家族の事情で帰省できない児童も多かった。脱走も多かったが、家から数百マイルという距離がそれを阻止した。ホームシックにかかることは「恥ずべきこと」とされ、脱走者には、「ホット・ライン」というガントレットに似た懲罰が加えられた。これは、教師がまず鞭を加え、次に鞭や棒を持って並ばせた20人ほどの生徒達が殴りかかる中を走らされるというものである。前述のデニス・バンクスはそれでも抵抗したために、教師によって丸刈りにされ、数日間女子の制服を着せられて生活させられたと語っている。児童生徒が精神的虐待や性的虐待を受ける例もあった。
学生たちは、インディアンの生活様式が白人のものよりも「野蛮で劣っている(savage and inferior)」と教え込まれ、彼らは寄宿学校に入ることでより良い生活様式に教化・上昇(raised up)していると教えられた。また、伝統文化を守るインディアンたちは「ばか(stupid)で汚い(dirty)」とされ、最も速く白人文化に同化したインディアン達を「良いインディアン」と呼び、そうでない人々を「悪いインディアン」と呼ばせた。
インディアン学生は、お互いをスパイする義務が課せられており、つねに教師による監視下にあり、プライバシーは一切無かった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これはほとんどのインディアン部族がプライバシーを非常に尊重する文化を持っているのと対照的である[要出典]。 寄宿学校制度の初期には、学校の衛生状態が劣悪だったために、天然痘やその他の白人の病気をうつされた児童が数十人単位で死亡する例も多かった。以下のアパッチ族の例は珍しいものではない。 1886年秋、ジェロニモたちの降伏のすぐ後に、チリカワ・アパッチ族の子供たちが親元から引き離され、カーライル・インディアン工業学校へ送られた(写真 「インディアン寄宿学校」は、様々な政治的道具としても利用された[7]。 1906年、アメリカ政府はホピ族に対して騎兵隊を送り込み、老若男女合わせた全部族民[8]の「インディアン寄宿学校」への入学を強要した。
アパッチ族の悲劇
アメリカ政府とインディアン寄宿学校