インターナショナル・ヘビー級王座
詳細
管理団体日本プロレス
全日本プロレス
創立1957年11月1日
廃止1989年4月18日
統計
初代王者ルー・テーズ
(1958年6月)
インターナショナル・ヘビー級王座(インターナショナル・ヘビーきゅうおうざ)は、全日本プロレスが管理、PWFが認定している王座。NWAの認可だったこともあり、日本国外ではNWAインターナショナル・ヘビー級王座(NWA International Heavyweight Title)とも呼称されている[1]。現在は三冠ヘビー級王座を構成しているチャンピオンベルトの1つである。 この王座は、NWA本部が1958年6月に日本を始め世界各国で積極的にNWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行って防衛を続けたルー・テーズの実績を認めて、NWA世界ヘビー級王座とは別に、新たにテーズを初代のインターナショナル・ヘビー級王者として認定したことによって始まったものである。このインターナショナル・ヘビー級王座が1958年8月27日、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでのノンタイトルマッチで力道山がテーズに勝利(反則勝ち)し、力道山はこの勝利を理由に王者の資格があると主張する。タイトル分裂。テーズはその後も世界王座を奪回するまで、王者として活動している。後にテーズより王者を名乗る事を認められたと推察される(なお、この王座には専用のチャンピオンベルトは存在せず、帰国後に力道山が作成した。2度目に製作されたものが、ジャイアント馬場が1972年に全日本プロレスを旗揚げした時に力道山家から寄贈され、世界ヘビー級王座、後のPWFヘビー級王座のチャンピオンベルトとなる)。これ以後、日本に定着することになる。 インターナショナル・ヘビー級王座が力道山に移ってからは日本プロレスの至宝として東京・大阪などの大会場でタイトルマッチが行われ、力道山はドン・レオ・ジョナサン、エンリケ・トーレス、ミスター・アトミック、サニー・マイヤース、プリンス・イヤウケア、ミスターX、ゼブラ・キッド、ジェス・オルテガ、パット・オコーナー、バディ・オースチン、ザ・デストロイヤーなどといった強豪レスラーと名勝負を繰り広げ、またグレート・アントニオやヘイスタック・カルホーン、ムース・ショーラックなどの異能派レスラーとも王座を賭けて戦うなど[2]、インター王座は力道山の代名詞となっていく。力道山は一度もこの王座を明け渡すことなく、19回連続防衛(ただし反則負け防衛が1回ある)を果たした。 しかし力道山は1963年12月4日にザ・デストロイヤーを相手に19回目の王座防衛を果たした後、刃物で刺され予後不良から12月15日に急逝。その後、日本プロレスはインターナショナル・ヘビー級王座について、『力道山一代限りのもの』として封印を決める。 ジャイアント馬場が凱旋帰国しスケールの大きなレスリングで爆発的な人気を得ると「馬場を力道山の後継者として、インター王者を継がせるべきだ」という声が起こり、日本プロレスはNWAの了承を得てインターナショナル王座の封印を解除、「NWA認可、日本プロレスリング・コミッション認定」のタイトルとして復活させる。ただしチャンピオンベルトは力道山が使用したものを使わず、それとは全く別にベルトを新調した。 1965年11月24日、王座決定戦でディック・ザ・ブルーザーを破った馬場が第3代王者に就く。馬場は途中ボボ・ブラジル、ジン・キニスキーに王座を明け渡したものの、1972年9月に日本プロレス脱退・全日本プロレス創立に伴い王座を返上するまで、タイトルを保持した。この間テーズ、キニスキー、デストロイヤー、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス、ゴリラ・モンスーン、ブルーノ・サンマルチノ、ターザン・タイラー、クラッシャー・リソワスキー、ウイルバー・スナイダー、フレッド・ブラッシー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、ドリー・ファンク・ジュニア、ザ・ストンパー、スパイロス・アリオン、イワン・コロフ、クリス・マルコフ、テリー・ファンク、ブルドッグ・ブラワー、ジョニー・バレンタインらの強豪を退け[2]、インターナショナル王座の価値はますます高いものとなった。当時のNWA世界ヘビー級王者キニスキー(NWA王者としての来日時は日本プロレスのNWA加盟前)およびドリー、WWWF世界ヘビー級王者サンマルチノが来日した際にも、各世界王者を挑戦者として馬場のインター王座防衛戦が行われた(1969年末にドリーが初来日した際は馬場がNWA世界王座に挑戦している)。 馬場の全日本プロレス離脱に際し、馬場が保持するインターナショナル・ヘビー級王座に関して、日本プロレスは1972年9月6日開催の田園コロシアム大会にて、王座に大木金太郎を挑戦させ、馬場が勝利した場合はベルトを持っていっても構わないと発表したが、馬場は日本プロレスからの提案を拒否し、インターナショナル・ヘビー級王座を返上した上で退団。馬場の王座返上後の1972年12月、大木とボボ・ブラジルの間で新王者決定戦が行われ(「頭突き世界一決定戦」とも称された)、ブラジルが初戦に勝ち王座復帰、第2戦で大木が勝って念願のインターナショナル王座のベルトを腰に巻いた。以降、大木はビリー・レッド・ライオンとフリッツ・フォン・エリックを相手に防衛戦を行ったが、アントニオ猪木とジャイアント馬場が抜けた後の日本プロレスは観客動員が格段に落ち、程なくして経営不振になり自前の興行を行えなくなった後、団体としての活動を停止した。それに伴い、インターナショナル・ヘビー級王座は認定コミッション消滅により宙に浮いた状態となったが、チャンピオンベルトそのものは大木が所持し、地元韓国にてスーパー・デストロイヤー、マリオ・ミラノ、ザ・デストロイヤー、サムソン・クツワダ、サンダー杉山、アブドーラ・ザ・ブッチャー、高千穂明久、ドン・レオ・ジョナサン、稲妻二郎、キラー・トーア・カマタ、キング・イヤウケア、ブル・ラモス、フレッド・ブラッシー、ジョニー・ロンドス、チーフ・フランク・ヒルなどと防衛戦を行った[2]。大木が新日本プロレスに参戦していた当時の1975年3月27日には、ソウルでアントニオ猪木の挑戦も一度受けている。これは猪木唯一のインター戦となった。
歴史
力道山時代
ジャイアント馬場時代
大木金太郎時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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