インターアーバン
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出典検索?: "インターアーバン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年1月)
併用軌道を走行するインターアーバン(サウスショアー線ウェスタン鉄道博物館に保存されているペニンシュラ鉄道のインターアーバン

インターアーバン(英語: Interurban、都市間電気鉄道)は、都市と都市を結ぶ電気鉄道の一体系を指す。数十km程度の都市間を結ぶ路線であり、都市内輸送を中心とする鉄道、数百kmにも及ぶ長距離路線と対比される。北米日本西ヨーロッパで普及した。

英語の発音はインタ・アーバンに近く、そこから転じて日本ではインターバンと呼ばれることもある。一部書籍ではドイツ語風のインターバーンという表記も見られるが、英語由来の単語である[注釈 1]
インターアーバンの定義日本のインターアーバンは20世紀半ばまでに廃止されるか普通鉄道に格上げされてきたが、一部中小都市にはその特徴を色濃く残す路線が現存している。(京阪京津線滋賀県大津市

「インターアーバン」はアメリカ合衆国を発祥とする。

19世紀の最後の10年間に、アメリカ合衆国の中西部オハイオインディアナミシガンイリノイの各州)では、都市間を結ぶ電気鉄道が急速に発達した。こうした鉄道について記述したり、語ったりする場合に、「都市と都市を結ぶ電気鉄道」を意味する語「インターアーバン・エレクトリック・レイルウェイ」を略して「インターアーバン」と呼ぶようになったのがその起源である。

当時のアメリカ合衆国で、都市間を結ぶ電気鉄道には二種類が存在した。

一つは都市と農村を連絡するために建設された路面電車網がお互いに接続することで都市間のネットワーク[要曖昧さ回避]を形成したケースである。この種の路線は主としてニューイングランド地方で発達した。農村地域での短距離移動や農村から町に出る際には簡便で適切な交通機関であったが、都市間(拠点間)移動の分野では所要時間がかかりすぎてあまり実用的な存在ではなかった。

もう一つは、初めから都市間の直結を意図して建設された高速路線である。一般にインターアーバンとはこの後者の種類の鉄道を指す。

当時のアメリカ合衆国で都市間連絡を目的とした電気鉄道は以下のような特徴を持っていた。
市街地では併用軌道、郊外では専用軌道を走行する。

当初から電気鉄道として建設されたものが中心だが、蒸気機関車で運行されていた既存の路線を電化したものもある。

旅客輸送収入を主な収入源としていた。

車両はボギー車で、連結運転が行われる事もあった。

機関車よりも軽量な電車を運転するよう設計されていたため、軌道は簡便で済んだ。

所要時間と運行間隔から、50マイル (80 km) 程度離れた都市間内で最もその能力を発揮した。

1890年代から1930年代までに建設された。

上記の特徴を持つ路線をアメリカ合衆国ではインターアーバンと呼ぶことが多い。

7を除けば、これらの特徴は福井鉄道福武線京阪京津線広島電鉄宮島線・市内線、鹿児島市電谷山線など日本に現存する都市近郊路線にも共通するものがあり、また過去にこれらの特徴を持っていた都市近郊路線も多い。京王線[1]東急田園都市線大井町線[注釈 2]京急本線近鉄奈良線阪神本線山陽電気鉄道本線[2]などがある。

なお、インターアーバンの公式の定義としては、アメリカ合衆国統計局が1902年以降行っていた電気鉄道統計における区分を挙げることができる。アメリカ合衆国統計局は当初、都市間の電気鉄道と郊外の電気鉄道の全てをインターアーバンと定義し、1912年以降は会社規模によって区分をおこなった。こうした定義は、上記のようなイメージとはかけ離れた低規格の路面軌道等を含んでしまうため、路面電車やインターアーバンについての研究を行ったハーバード大学のメーソンやイリノイ大学のデュー、UCLAのヒルトンらは、より実態に即した定義を行っている。それらは上記のような、我々のイメージする定義とほぼ一致するものである。
アメリカのインターアーバン
歴史
黎明期

都市間を結ぶ電気鉄道が実用的なものになったのは1890年代の事である。電気モーターで鉄道車両を走行させる駆動システムには初期の試行錯誤はあったものの、フランク・スプレイグ (Frank Julian Sprague) が1887年に開発した吊り掛け駆動方式は、モーターの回転力を安定して車軸に伝える事を可能にし、以後半世紀にわたって電車の駆動システムの主流をなした。この結果、路面電車の急速な発展がもたらされ、やがては都市市街地以外への電車の進出をも促したのである。1893年ごろからインターアーバンの建設がはじめられ、1900年までに3000キロほどの路線が建設された。
最盛期イリノイ鉄道博物館に保存されているシカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道のインターアーバン

インターアーバンが急速に普及したのは1901-1908年のことである。1897年にスプレイグが発明した総括制御方式により、連結された複数の電車を先頭車両からの遠隔操作で同調させて運転できるようになり、客車並みの大型の電車を連ねて輸送力を確保できるようになったこと、また19世紀最後の数年間に建設された路線の業績が好調であったことで、爆発的に路線が広まった。全米で2万4000キロの路線が建設され、オハイオ州ミシガン州インディアナ州の路線は相互に連絡して広大な路線網が築かれた。

インターアーバンの建設最盛期は1908年に終焉を迎えた。1907年に起こった恐慌の影響が甚大であった事に加え、期待していたほど利益が得られないことが徐々に判明したからである。ミネアポリスから東部に至るアメリカ北東部の隅々を結ぶ路線計画が練られていたが、そのほとんどは実現することがなかった。

インターアーバンの全盛期はその後の10年間である。当初は既存の鉄道路線に比べて格安の運賃も魅力的であったが、中西部の諸州では鉄道の普通運賃の上限を規制する法律が制定され、既存の鉄道会社とインターアーバンの運賃格差はほとんどなくなってしまった。アメリカの蒸気機関車による客車普通列車は平均40-50km/h程度で走行していたが、インターアーバンでは併用軌道が存在するために、速度は平均30-40km/h程度に抑制され、その点でも不利であった。このため、既存の鉄道会社の1日に数本という運行本数に対し、1時間に1本程度の運行間隔を確保し、既存の鉄道会社の列車が存在しないルートに盛んに列車を運行するフリークエントサービスで、集客を図っていた。電車の機動性・軽便性を活かした頻発運転は、蒸気鉄道にはないメリットであった。
衰退期

インターアーバンの衰退は、第一次世界大戦後すぐに始まった。


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