インゲボルガ・ムスチスラヴナ
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インゲボルガ・ムスチスラヴナ
Ингеборга Мстиславна

出生
1100年

死去1137年以降

配偶者シュレースヴィヒ公クヌーズ・レーヴァート
子女キアステン
マルグレーテ
カトリーネ
ヴァルデマー1世
家名リューリク家
父親キエフ大公ムスチスラフ1世
母親クリスティーナ・インゲスドッテル
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インゲボルガ・ムスチスラヴナ(キエフのインゲボルガ、ノヴゴロドのインゲボー)(ロシア語: Ингеборга Мстиславна (ロシア語: Ингеборга Киевская、デンマーク語: Ingeborg af Novgorod)、1100年頃 - 1137年以降)は、12世紀前半のルーシの公女である。キエフ大公ムスチスラフ1世とその一人目の妻・クリスティーナスウェーデン王インゲ1世の娘)の子。デンマーク王ヴァルデマー1世(Valdemar)等の母。
生涯

インゲボルガはおそらく父の宮廷で教育を受け、成長した。1116年ごろに南ユトランド(シュレースヴィヒ公国地域)のヤール(中世スカンジナビアの貴族、州の太守[1])であるクヌーズ・レーヴァート(Knud Lavard、エストリズセン朝デンマーク王エーリク1世の子)と結婚した。文学的史料には、インゲボルガの父・ムスチスラフの宮廷におけるクヌーズの求婚の使者を賞賛する描写がある。結婚はインゲボルガの母方のおばにあたる、デンマーク王妃マルグレーテ(デンマーク王ニルス妃)によって取り持たれた。

結婚後、インゲボルガは夫とともに、デンマーク王位をめぐる闘争の渦中に置かれた。闘争の過程で、夫のクヌーズ・レーヴァートは1131年に殺害された。夫の死の数日後に、後にデンマーク王ヴァルデマー1世となる息子を産んだ。ヴァルデマーの名は、インゲボルガの曽祖父にあたるルーシの大公・ウラジーミル・モノマフにちなんで名づけられた。

1137年、インゲボルガは子供たちと共に、故郷への帰還を余儀なくされた。以降の消息については不明である。

夫はエストリズセン朝のクヌーズ・レーヴァート。子には以下の人物がいる。

キアステン(Kirsten) - ノルウェー王マグヌス4世と結婚

マルグレーテ(Margrethe) - スティー・ヴィーゼ(Stig Hvide)(da)と結婚

カトリーネ(Katrine) - メクレンブルク家のプリスラフ(ドイツ語: Prislav)(de)と結婚

ヴァルデマー(Valdemar) - デンマーク王(在位:1157年 - 1182年)

脚注
注釈

本頁のデンマーク王室出身者のカタカナ表記は、 ⇒
大阪大学外国語学部HP内の辞書に従うが、一部慣用表記を優先させた。また、付記したラテン文字はデンマーク語表記。

出典^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p1313

参考文献

?н?ебор? Мстиславна - Персонал?? - Проект ≪Укра?нц? в св?т?≫

Carl Frederik Bricka. Dansk biografisk Lexikon / VIII. Bind. Holst - Juul / p. 282-283.


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