イングルウッド_(カリフォルニア州)
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エングルウッド」とは異なります。

イングルウッド
City of Inglewood


旗章

位置

カリフォルニア州におけるロサンゼルス郡(左図)およびロサンゼルス郡におけるイングルウッドの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度57分27秒 西経118度20分46秒 / 北緯33.95750度 西経118.34611度 / 33.95750; -118.34611
歴史
市1908年2月14日[1]
行政
アメリカ合衆国
 カリフォルニア州
 ロサンゼルス郡
イングルウッド
City of Inglewood
市長ルーズベルト・F・ドーン
地理
面積 
  域23.7 km2 (9.1 mi2)
    陸上  23.7 km2 (9.1 mi2)
    水面  0 km2 (0 mi2)
標高40 m (131 ft)
人口
人口(2020年現在)
  域107,762人
    人口密度  4657.2人/km2(12062.1人/mi2)
  備考[2]
その他
等時帯太平洋標準時 (UTC-8)
夏時間太平洋夏時間 (UTC-7)
公式ウェブサイト : ⇒City of Inglewood

イングルウッド(: Inglewood)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡南西部の都市であり、ロサンゼルス市中心街の南西にあたる。1908年2月14日に市制が布かれた[1]2020年国勢調査では人口107,762人となっている[2]。イングルウッドは大ロサンゼルス都市圏のサウスベイ地域にある[3]
歴史
アメリカ合衆国以前

現在のイングルウッドとなった場所に最も初期に住んだ住民は、今日のエドワード・ビンセント・ジュニア公園(その歴史の大半ではセンティネラ公園と呼ばれた)にある天然泉を利用したアメリカ・インディアンだった。地元の歴史家グラディス・ワッディンガムは、これらの泉がそこから緩やかに立ち上がり、牧童達がその牛の群れを観察できた岡から「センティネラ」(歩哨)という名前を得たと記した[4]

ワッディンガムは、1781年にロサンゼルスの当初の開拓者達にまでイングルウッドの記録が残る歴史を辿った。その開拓者の中に「シナロアのロスアラモスから来た23歳のラバ追い」であるスペイン軍人ホセ・マヌエル・オルカド・マカドがいた。これらの開拓者達はサンガブリエル伝道所の役人から「伝道所の土地に侵入しないようにロサンゼルスの大洋側の土地で動物達に草を食ませる」よう命令された。その結果、開拓者達すなわち「ポブラドーレス」はセンティネラ・スプリングスに近い青々とした牧草地」にその牛の群れを追っていった。そこに最初に建設されたのは、「牛の群れを入れる囲いと小屋」を建てる許可を1822年に得ていたイグナシオ・アビラによってだった[4]ランチョ・アガヘ・デ・ラ・センティネラのアドベ、1889年撮影

後にアビラはセンティネラ・スプリングスから大洋まで流れるクリークを見下ろす小さな丘に3室の日干しレンガ造りの家を建てた。LAOkayウェブサイト[5] に拠れば、この家は現在公園の野球場がある所に建てられたということであり、現在は存在しない。

1834年、ホセ・マカドの息子の一人、イグナシオ・マカドが、現在サンディエゴ・フリーウェイ405の高台にあり、センティネラ・バレー歴史協会の本部として使われているセンティネラ・アドベ[6] を建設した[4]。ワッディンガムに拠れば、2年後にイグナシオ・マカド[7] は2,220エーカー (8.8 km2) のランチョ・アガヘ・デ・ラ・センティネラの土地特許を得たが、この土地は既にアビラによって所有権主張されていた[4]
イングルウッドの設立

センティネラ・バレーは幾らかの小作農やフリーマンの牧場労働者を除けば、ほとんど人が住んでいないままだった。1880年代にロサンゼルス郡で起こった土地ブームによって、このバレーの様相が劇的に変化した。ロサンゼルスから来た開発推進者が土地開発の可能性を求め、センティネラ・スプリングス近くに町を区画することを望んだ。1887年、センティネラ・イングルウッド土地会社が結成され、その年8月にダニエル・フリーマン所有の3つの牧場の測量を始めた。フリーマンはこの会社の長期計画に興味を持ち、その上等の果樹園地11,000エーカー (44 km2) を会社に1エーカーあたり1.25ドルで売却した。この土地がイングルウッド市になった。

センティネラ・イングルウッド土地会社は当初その開発地をセンティネラ・コロニーと名付けた。彼等は20、40、80および160エーカー(8万、16万、32万および64万平方メートル)の小区画に分割した。住宅地区は1区画200ドルないし750ドルに設定された。農地は1エーカーあたり200ドルないし400ドルとされた。素晴らしい果樹園用土地は1エーカーあたり600ドルから1,500ドルの間で挙げられた。センティネラ・コロニーは土地ブームの中でも最も成功した分譲地の一つになり、1888年には売上げ100万ドル以上を計上した。そこが存在し始めた最初の年だけで、宣伝費2万ドルという信じられないような金が費やされた。当時の地元不動産大立て者は土地会社の取締役の中にもおり、ダン・マクファーランド、エドワード・C・ウェブスター、L・T・ガーンジーおよびローズミードの設立者レナード・J・ローズ等がいた。

1887年、ロサンゼルスとサンタモニカ湾を結ぶ鉄道が開通した。この線はカリフォルニア・セントラル鉄道(アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道の前身)によって建設され、フリーマンの牧場の中央を抜けるコースを採った。この線はロサンゼルス・アンド・バロナ支線と呼ばれ、センティネラ・コロニーには操車場が建設された。他にもセンティネラ駅からレドンド・ビーチに延びる鉄道線が建設された。1888年、センティネラ・イングルウッド土地会社はレドンドの土地開発者と合併し、レドンド・ビーチ・アンド・センティネラ・イングルウッド土地会社という名前で再編された。

1888年にはこの若い町の全区画が販売され、2つの事業用ブロックが完成した。町の名前はセンティネラからダニエル・フリーマンのカナダの故郷町から「イングルウッド」に変えられた。風格のある優美なホテルの建設が行われていた。フリーマンの納屋の一つがイングルウッドでは初めての学校の一つに使われた。町の人口は土地ブームのピークだった1888年に300人だった。畜産と農業を重点とする応用科学カレッジを造る計画が進行した。このカレッジは南カリフォルニア大学によって運営されることになっていた。ダニエル・フリーマンは大学のために60万ドルを寄付し、そのうち10万ドルは建物の建設に充てられるとされた。

フリーマンがイングルウッドの区画を設計したとき、自分には新しい邸宅を建てるためにセンティネラ・スプリングス近くの60エーカー (24 ha) を選んだ。彼は1888年にその区画に豪勢な3階建てビクトリア様式の邸宅を建て始め、翌年完工した。それが完成したとき、フリーマンはセンティネラの原始的日干しレンガの家を離れて新しい豪勢な家に移った。フリーマン邸宅はノースプレーリー・アベニュー333番である。古い日干しレンガの家は1912年までフリーマンの牧場監督の住居になっていた。

1889年、巨大な金融危機で大土地ブームを終わらせた。南カリフォルニアの不動産開発者の大半にとって破壊的なものになり、幾つかの町は忘れられたものとなった。イングルウッドは他よりはましだったが、それでも悪影響があった。完成されたばかりのホテルは使われる前に破産し、ダニエル・フリーマンのカレッジ計画は永遠に葬られた。1890年、フリーマンは土地会社が売れなかった区画を全て取り戻した。イングルウッドの町は生き残り成長を続けた。1908年には人口1,200人で市制が布かれた。1920年から1925年、イングルウッドは全米でも成長速度の最も速い都市になった。


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