イングリッド・バーグマン
Ingrid Bergman
1942年
本名Ingrid Bergman
生年月日 (1915-08-29) 1915年8月29日
没年月日 (1982-08-29) 1982年8月29日(67歳没)
出生地 スウェーデン ストックホルム
死没地 イングランド ロンドン ケンジントン・アンド・チェルシー区 チェルシー チェイニー・ガーデンズ (Cheyne Gardens) 9番地[1]
国籍 スウェーデン
職業女優
活動期間1932年 - 1982年
配偶者ペッテル・リンドストローム(1937年 - 1950年)
ロベルト・ロッセリーニ(1950年 - 1957年)
ラルス・シュミット(1958年 - 1978年)
著名な家族ピア・リンドストローム
ロベルティーノ・ロッセリーニ
イザベラ・ロッセリーニ
イゾッタ・イングリッド・ロッセリーニ
主な作品
『カサブランカ』(1942年)
『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)
『ガス燈』(1944年)
『汚名』(1946年)
『追想』(1956年)
『オリエント急行殺人事件』(1974年)
『秋のソナタ』(1978年)
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1944年『ガス燈』
1956年『追想』
助演女優賞
1974年『オリエント急行殺人事件』
ヴェネツィア国際映画祭
女優賞
1952年『ヨーロッパ一九五一年
イングリッド・バーグマン(典: Ingrid Bergman, 1915年8月29日 - 1982年8月29日)は、ヨーロッパとアメリカで活躍したスウェーデン出身の女優[2]。 アカデミー賞を3回、エミー賞を2回、トニー賞の演劇主演女優賞の受賞経験があり、AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)選定の「映画スターベスト100」の女優部門では第4位となっている[3]。 バーグマンはアメリカで女優として成功をおさめる以前から、スウェーデンでは名を知られた女優だった。バーグマンがアメリカ映画に初出演したのは、スウェーデン映画の『間奏曲』をリメイクした『別離』(1939年)である。その際立った美貌と知性でアメリカ映画に「北欧からの瑞々しい息吹」を吹き込んだバーグマンは、すぐさま「アメリカ人女性の理想」となりハリウッドを代表する女優の一人となったと『ポピュラーカルチャー百科事典』(en:St. James Encyclopedia of Popular Culture
業績
映画監督ヴィクター・フレミングがリメイクした映画『ジェキル博士とハイド氏』(1941年)に出演したバーグマンは、後に自身をハリウッドへ招く映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに認められた。セルズニックはバーグマンのことを、今までともに仕事をしてきた中で「もっとも完成された誠実な女優」と評価している。セルズニックはバーグマンに7年間の出演契約を提示し、その後の女優活動をプロデューサーとして支えていくことになる。バーグマンがセルズニックとは無関係に出演した映画には『カサブランカ』(1942年)、『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)、『ガス燈』(1944年)、『聖メリーの鐘』(1945年)『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)があり、独立系映画としては『ジャンヌ・ダーク』(1948年)がある。
ハリウッド進出以来、10年間にわたってアメリカでスター女優の地位を守り続けたバーグマンは、1950年にロベルト・ロッセリーニが監督するイタリア映画『ストロンボリ』に主演した。この作品がきっかけとなり、バーグマンとロッセリーニはともに既婚者であったにもかかわらず、不倫関係を持つようになる。この不倫関係とその後の二人の結婚は大きなスキャンダルとなり、バーグマンはその後の数年間アメリカに戻ることができなくなった。1956年の『追想』でハリウッドに復帰したバーグマンは、この映画でアカデミー主演女優賞を受賞するとともに、旧来のファンもバーグマンを許したといわれている。バーグマンに関する私生活や映画関連の文献は、ウェズリアン大学のシネマ・アーカイブが多く所蔵している[5]。
前半生(1915年 - 1938年)14歳のバーグマン。