イングランド王政復古
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チャールズ2世。イングランドの王政復古後初めて王位に就いた。

イングランド王政復古(イングランドおうせいふっこ)は、清教徒革命(三王国戦争)に続く空位期間後にイングランドスコットランドアイルランドの王家がチャールズ2世のもとで復古した1660年に始まった。英語の "Restoration" という単語は実際に起きた出来事「王政復古」と新政治体制が作られた「王政復古期」両方の意味を持つ[1]

「王政復古期」はチャールズ2世の在位期間(1660年 - 1685年)を指すのに用いられることが多く、弟ジェームズ2世の短い在位期間(1685年 - 1688年)を指すのにも用いられる[2]。文脈によってはアン女王が死去してステュアート朝が断絶し、ジョージ1世が即位してハノーヴァー朝が始まる1714年まで、つまり後期ステュアート朝時代全てを指すこともある。たとえば英語の「王政復古喜劇」には名誉革命(1688年 - 1689年)以降の1710年に書かれた作品なども含まれる。
系図

                     

    
ジェームズ1世            

          
      
エリザベス チャールズ1世       

                
          
ゾフィー チャールズ2世 メアリー ジェームズ2世

                 
     
ジョージ1世     ウィリアム3世 メアリー2世 アン         
 
                 

ハノーヴァー朝) 



護国卿時代

1658年9月3日護国卿オリバー・クロムウェルの死後、世襲で三男リチャード・クロムウェルが次の護国卿となった。彼が父の政策を受け継ぎ遂行する能力を持っていたならば、イングランド王政復古時代の前のイングランド共和国時代(護国卿時代)はもっと続いたかもしれない。だが、リチャードの大きな弱みはニューモデル軍からの信頼を取りつけられなかったことだった。護国卿就任から7か月後1659年5月6日に、ウォリングフォード・ハウス党派として知られる軍の一派によってリチャードは引退させられ、ランプ議会(残部議会)が再設置された[3]

リチャードの義兄チャールズ・フリートウッドは保安委員会、イングランド国務会議の構成員、そして7人の軍理事のうちの1人に任命された。さらに同年6月9日には軍最高司令官(Lord General)に指名されたが、彼の指導者としての地位は清教徒革命後の議会と同様に軍隊の影響力を小さくしようとした当時の議会の中で蝕まれていた。一方、王党派の蜂起は8月1日に計画されていて、計画自体は失敗したがジョージ・ブース卿はチェシャー州の支配権を獲得した。オランダに亡命していたチャールズ2世はブースの蜂起に気を良くして、スペインの援助でイギリスに上陸できると期待していたが何も起こらず[4]、ブースも8月末にジョン・ランバート将軍に敗れた。

10月12日、ランプ議会はランバート将軍や他の将校たちを解任し、フリートウッドを庶民院議長の権限下の軍事委員会の長に任命した[5]。翌日、ランバートは下院議場の扉を閉じ、議員たちを締め出した。26日、ランバートとフリートウッドら構成員の保安委員会が設立され、ランバートがイングランドとスコットランドの全軍隊の少将に就任し、フリートウッドは将軍になった。[5] 保安委員会はランバートを大軍とともに、スコットランドに駐屯していたイングランド部隊の指揮官ジョージ・マンクのもとに、マンクと交渉してもしくは強制的に合意するという任務に送りだした[5]

スコットランド駐留軍の司令官マンクがスコットランドから部隊を引き連れ南下したのはこの状況下であった。ランバートの軍隊がランバートを見捨て、ランバートはロンドンにほぼたった1人で帰った。マンクは対立者不在の中でロンドンに進軍した。1648年プライドのパージで排除された長老派が呼び戻され、12月24日に軍隊が長期議会を復活させた[5]。フリートウッドは指揮権を剥奪され、自身の行いの申し開きをするために議会に出頭するよう命じられた。

1660年3月3日、ランバートはロンドン塔に送られたが1か月後脱走、イングランド共和国に味方して、古き善き大義の支持者全員に対し、エッジヒル戦場に再び結集せよとの宣言を発することで、内戦を再勃発させようとした。だが、ランバートは彼を新政権に引き渡して、恩赦を勝ち取ろうとしたリチャード・インゴルスビー大佐に捕まり、再び囚われの身となる。インゴルスビー大佐はチャールズ1世を死刑に処した判事の一人であった[5]。ランバートは投獄されて1684年、ドレイク島での拘留中に死去し、インゴルスビーは赦免された[6]
チャールズ2世の王政復古スヘフェニンゲン(オランダ)からのチャールズ2世の帰還 1660年

4月4日、チャールズ2世はブレダ宣言を発し、その中で、イングランド王政の復古に関していくつかの約束(内乱期の反国王派の言動について不問に付すことなど)をした。マンクは庶民院議員選挙を行い4月25日に初めて仮議会を開いた(国王の承認を受けていないので仮議会と呼ばれる)。5月8日、議会は国王チャールズ2世が1649年1月30日の国王チャールズ1世の処刑(英語版)以来ずっと正当な君主であったと宣言した[7]。つまり、「基本法上はこれまでの19年間は決して起こらなかったようである」ということだ[8]

チャールズは亡命先のハーグを5月23日に出て、25日にドーヴァーに上陸した[9]。彼がロンドン入りしたのは5月29日、奇しくも彼の30歳の誕生日であった。国王陛下の議会への復帰を祝うため5月29日はオークアップルデーとして知られる休日に制定された[10]。チャールズはウェストミンスター寺院で1661年4月23日に戴冠した[9]

同時代の人から王政復古は「神の力で定められた奇跡。突然の思いがけない、圧政と政権簒奪からの解放は、自然で神聖な秩序の回復と認識される」と言われることがある[11]


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