イングランド教会史
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イングランド教会史(イングランドきょうかいし)では、イングランドにおける教会の歴史を概説する。またベーダ・ヴェネラビリスの同名書籍についても概説する。
イングランド教会の歴史
布教の開始

ブリテン島のキリスト教の歴史は、ローマ帝国時代にまで遡ることができる。古代末期にはペラギウス聖パトリックが知られており、後者によってアイルランド伝道が開始された。

アイルランドが急速にキリスト教化するのと対照的に、ブリテン島はアングロ・サクソン人の侵入を受け、一時的にキリスト教布教が停滞した。しかしながら563年以降、アイルランドから渡った聖コルンバアイオナ島を拠点にスコットランド改宗に着手し、597年6月9日の死にいたるまで熱心な布教活動を続けた。ちょうど同じ年の6月2日に教皇グレゴリウス1世の命を受けた聖オーガスティンケント王国に上陸し、イングランド布教も開始された。
ケルト教会とカトリック教会

こうしてアイルランド人のケルト教会とカトリック教会が同じ島で同時期に別々に布教を開始したが、両者は様々な面で相違していたために布教をめぐって摩擦や対立が生じることとなった。

ケルト教会とカトリックでは、復活日の計算の仕方が異なり、両者の日取りの間には数週間の誤差が生じていた。ケルト教会はユダヤ教過越祭にちなんで、ユダヤ暦ニサン月の14日に行っていた。また両者の修道士の剃髪のスタイルも異なり、ケルトの修道士は額を完全に剃り落としていたが、カトリックの修道士はドーナッツ状に髪を残していた。[1]
ウィットビー教会会議

663年ノーサンブリア王オスウィがケルト教会の方式で復活日を祝っている時、カトリック方式に従っていた妻がまだ四旬節を守っていたために、復活日に関する問題が表面化した。これを解決するために両者はウィットビーで教会会議を開いて王の前で議論し、最終的に王はカトリックを支持した[2][3]664年ウィットビー教会会議ではカトリック側が勝利した。以後イングランドの地域ではカトリック教会が優勢になった。

8世紀末のデーン人の侵入によって、イングランドの教会は再び停滞の時期を迎えた[4]が、10世紀にはアルフレッド大王の下で復興がなされた[5]。その後デーン人侵入の第二波がイングランドを襲うが、その王クヌートはキリスト教徒であり、キリスト教を厚く保護した[6]
ノルマン朝
ウィリアム1世

エドワード懺悔王の死後、1066年ヘイスティングズの戦いに勝利したウィリアム1世がイングランド王に即位してノルマン朝を開始した。ウィリアムは自身の王権を強化しようとして、イングランドに強力な支配権を打ち立てようと試み、イングランド国内の司教や大修道院長を自ら指名し、指輪と司教杖を与えて叙任した。このことは当時の教皇庁が進めていた、俗人による聖職叙任を排除しようという改革運動と真っ向から対立するものであった。ウィリアムはノルマンディー公時代から教会改革の精神には賛同し、自領の聖職者の倫理的・道徳的改革には熱心であった。しかしグレゴリウス改革の主眼である聖職叙任権については、自己の意志を貫徹し、ノルマンディー公時代から世俗家系の者を司教位につけ、イングランド征服後も征服以前にウィリアムに仕えていた有力者を優先的に司教に任じた。[7]

1073年グレゴリウス7世が登極すると、グレゴリウスはウィリアムを説得して俗人叙任を止めさせようとしたが、徒労に終わった[8]

ウィリアムは勅令を出して、イングランドの臣下が国王が同意しない破門宣告に同意することや、司教が国王に無断で出国すること、国内の聖職者が国王の認めない教皇書簡を受け取ることを一切禁じた[8]

ウィリアムの宗教政策はカンタベリー大司教ランフランクの協力によって推進された。ランフランクはまず、カンタベリー大司教のイングランドにおける首位性を確立するため、ヨーク大司教トマスに服従誓願を迫り、それを取り付けることでイングランドにおけるカンタベリー大司教の首位権確立に大きな前進をもたらした。ウィリアム1世の下に王国を統一するためにもこれは必要なことであった。ランフランクはカンタベリー大司教のイングランドにおける首位性が確認されないならば、ヨーク大司教がカンタベリー大司教と別個にイングランド王を聖別できる可能性があり、王国の統一にとって不利益であることを示唆した[9][10]。この逸話についてはあまり重視しない見解もある[11]

ローマ教皇庁は地域的な首位教会という考えには反対であったので、これを支持しなかったが、ウィリアムとランフランクは伝統的な政教協力の思想の下に、イングランドに強力な政府を樹立し、イングランド教会の独立を守り抜いた[12][13]。このカンタベリー大司教の首位権の確認が、イングランド王国を信仰を通じた一つの共同体に変え、普遍的カトリックからの切り離しをもたらし、のちの国民国家へつながる枠組みの萌芽を成立させたという見解もある[14]
教皇派アンセルムスアンセルムス
師であるランフランクの跡を継いでカンタベリー大司教となる。イングランド王国での聖職叙任権改革を進め、王権と対立。17年にわたる在位期間中、2度も追放される憂き目にあった

ランフランクの後継者であるアンセルムスは前任者とは対照的に、ローマ教皇に忠実な人物であった。しかし瀬戸一夫はアンセルムスが教皇と国王の間での叙任権闘争に、「聖俗切断」の論理で両者の和解をもたらしつつ、カンタベリー大司教の首位権確立に尽力した人物と見ている[15]

アンセルムスは明確に教皇首位権を認めていた[16][17][18][19]ので、1095年2月のロッキンガム教会会議では、教会に対する国王の干渉を強く非難した。

これに対し、国王ウィリアム2世に忠実なイングランドの司教たちは、逆にアンセルムスに教皇への服従を放棄するよう忠告した[20][21]

つづくヘンリー1世は聖職叙任に関して教皇とアンセルムスに歩み寄り、1107年ロンドン協約を結んだ。ヘンリーがこのような妥協に踏み切ったのは、当時ノルマンディー公ロベール2世がイングランド王位に野心を持ち、自らの王位を維持するために高位聖職者の協力が必要だったためである[22]


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