イングランド内戦
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清教徒革命の勢力図概要

イングランド内戦(イングランドないせん、英語: English Civil War)は、清教徒革命におけるイングランド騎士党(Cavaliers、王党派)と円頂党(Roundheads、議会派)の間で行われた軍事衝突である。両派は1642年から1651年までの9年間にわたって争い、3度におよんだ戦争は時期ごとに分けられている。
概要「三十年戦争」も参照

1642年に始まったチャールズ1世率いる国王軍と議会軍の第一次イングランド内戦(英語版)(1642年 - 1646年)は、当初国王軍に有利に推移したが、議会派の組織改革などによって議会軍が勝利した。つづいて勝利した議会派内でも深刻な対立を招き、長老派独立派の争いは次第に議会対軍・民衆という構図にかわってゆき第二次イングランド内戦(英語版)(1648年 - 1649年)は、1649年にチャールズ1世の処刑(英語版)と共和政のイングランド共和国樹立という帰結にいたった。第三次イングランド内戦(英語版)(1649年 - 1651年)は、1651年にウスターの戦いでチャールズ皇太子(後のチャールズ2世)が敗れ、大陸へ亡命して終結した。
第一次イングランド内戦詳細は「第一次イングランド内戦(英語版)」を参照「主教戦争」、「アイルランド反乱(英語版)」、「アイルランド同盟戦争(英語版)」、および「スコットランド内戦(英語版)」も参照
国王軍の優勢内戦勢力図。黄色は議会派、赤は王党派。
左上:1642年、右上:1643年、左下:1644年、右下:1645年。

1642年7月10日、ハル包囲戦(英語版)で国王軍・議会軍の最初の干戈が交えられた。8月10日のポーツマス包囲戦(英語版)では議会派が砦を陥れて勝利したが、9月23日のパウィック橋の戦い(英語版)では騎士たちの活躍により王党派が勝利するなど、一進一退の攻防が続いていた。

10月23日、エッジヒルの戦いは勝敗がつかなかったが[1]、この戦いでいち早く議会軍の練度の低さを見て取ったオリバー・クロムウェル鉄騎隊を結成することになった。

ロンドン攻略を諦め長期戦の構えをとった国王軍はオックスフォードを本拠として北部・西部を抑え、議会軍はロンドンを拠点に南部・東部を支持基盤とした。

11月1日、アイルズベリーの戦い(英語版)。

11月12日、ブレントフォードの戦い(英語版)。

11月13日、ターナム・グリーンの戦い(英語版)。

1643年に入ると大勢としては国王軍有利に進み、国王軍は何度もロンドンを窺う情勢にあった。議会軍が劣勢だった理由は、その編成にあったといわれる。国王軍は正式に令状が出されて集められ、訓練・戦闘経験を積んだ者も多かったいっぽう、議会軍は民兵を主力とする混成部隊だったからである。州や都市を守るためにつくられた民兵は自分の故郷を守ることには熱心だったが、地方意識が強く、国全体のこととなると士気を高くもてなかった。また、装備・訓練・実戦経験において貴族の率いる国王軍にはるかに及ばなかった。

1643年1月19日、ブラドック・ダウンの戦い(英語版)。

1月23日、リーズの戦い(英語版)。

3月13日、第一次ミドルウィッチの戦い(英語版)。

3月19日、ホプトン・ヒースの戦い(英語版)。

3月30日、シークロフト・ムーアの戦い(英語版)。

4月3日、キャンプ・ヒルの戦い(英語版)。

4月13日、レディング包囲戦(英語版)。

4月25日、ソアトン・ダウンの戦い(英語版)。

5月16日、ストラットンの戦い(英語版)。

6月18日、チャルグローブ・フィールドの戦い(英語版)。

6月30日、アドウォルトン・ムーアの戦いではトーマス・フェアファクス軍が敗走するなど、議会軍の弱体さが際立った。後にクロムウェルは当時を顧みて、民兵の混成部隊だった議会軍を「よぼよぼの召使いや給仕やそんな連中」と述懐している。

はかばかしくない戦況に議会派は軍の再編を急いで進めた。東部の諸州が連合してつくられた東部連合軍をはじめ、西部連合軍なども編成され、議会軍の組織化が進んだ。これらの再編によってただちに議会軍が精強になったわけではなく、軍の内外で様々な問題をかかえていた。議会内の見解の一致がとれていないことや、革命の目指す方向がないことなどがその主な理由であった。

7月5日、ランスダウンの戦い(英語版)。

7月13日、ラウンドウェイ・ダウンの戦い(英語版)。

7月26日、ブリストル陥落(英語版)。

7月28日、ゲインスバラの戦い(英語版)。クロムウェルは当時、東部連合軍の鉄騎隊隊長であった。

8月3日、グロスター包囲戦(英語版)。

いっぽう議会軍は、劣勢な戦況や進まない軍の再編という状況から、なんとしてもスコットランド国民盟約盟約派)の援助をとりつける必要にかられていた。イングランドの長老制導入を主張するスコットランド側の盟約派が用意した文面に対して、交渉にあたったヘンリー・ベインらは若干の修正を施したあいまいな表現の声明文を提案した。すなわち、「神の言葉にしたがって」と文頭に付け加えることによって、解釈に幅をもたせてスコットランドとの合意を実現した(厳粛な同盟と契約)。それでもイングランド側の宗教会議(ウェストミンスター会議)で紛糾したが、「人殺しが病人に襲いかかってきたとき、病人は薬を飲み続けて殺されるに任せるだろうか、それとも薬をすてて武器をとって立ち向かうだろうか」というジョン・ピムの演説も奏功し、1643年9月2日にイングランド側でもどうにか合意をとりつけた。ニューバリーなどで中小規模の戦いが続いた。

9月18日、アルドボーン・チェイスの戦い(英語版)。

9月20日、第一次ニューバリーの戦い(英語版)。

10月9日、ハル包囲戦(英語版)。

ヘプトンストールの戦い(英語版)。

10月11日、ウィンスビーの戦い(英語版)。

11月4日、オルニー橋の戦い(英語版)。

11月6日、ベーシング・ハウス包囲戦(英語版)。

12月8日、ジョン・ピムが末期ガンで死去。

12月13日、アルトンの戦い(英語版)。

12月26日、第二次ミドルウィッチの戦い(英語版)。
財政危機と転換点

両軍は戦闘の長期化に伴い、財政危機を迎えはじめていた。国王軍はアイルランド・カトリック同盟と、議会軍はスコットランド盟約派と交渉を始め、それぞれから一定の支持をとりつけたが、その影響が戦局を左右する一因ともなった。国王軍がアイルランドのカトリック同盟から得た資金提供はわずかであり、アイルランド軍の派遣は拒否された。

盟約派は約束通り1644年1月9日に援軍(カヴェナンター)を派遣し、ヨーク周辺で国王派のニューカッスル公の軍をおびやかすことになった。

1644年1月25日のナントウィッチの戦い(英語版)では、講和によってアイルランドから引き返すことができた国王軍の反乱鎮圧部隊が撃破されてしまい、カトリック同盟との講和が国王軍にもたらした利益は微々たるものとなった。さらにカトリック勢力と結んだことによって、王への不信感を醸成させるという結果も招いた。

2月27日、ラソム・ハウス包囲戦(英語版)。

3月20日、ボルドン・ヒルの戦い(英語版)。

3月21日、ニューアークの救援(英語版)。

3月29日、チェリトンの戦い(英語版)。

4月、セルビーの戦い(英語版)。

4月22日、ヨーク包囲戦(英語版)。

5月3日、リンカン包囲戦(英語版)。

5月28日、ボルトン虐殺(英語版)。

6月29日、クロップレディ橋の戦い(英語版)。

7月2日、マーストン・ムーアの戦いでは、さらに東部連合軍と合流し、議会軍に圧倒的勝利をもたらした。


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