イングランドの歴史
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この項目では、「イギリスの歴史」の中でイングランド地域の歴史について説明しています。その他の地域については「アイルランドの歴史ウェールズの歴史スコットランドの歴史」をご覧ください。

イングランドの歴史(イングランドのれきし)では、グレートブリテン島イングランド地域の歴史について記述する
古代ファイフィールド・ダウン丘原のケルト人農地跡西暦400年代のユトランド半島からブリテン諸島への移住。
Jutes: ジュート人
Angles:アングル人
Saxons: サクソン人詳細は「ブリテンの先史時代」を参照

ケルト人がイングランドに流入してきたのは紀元前7世紀頃と見られている。ケルト人は鉄器と共にヨーロッパにやって来ており、この遺物を調査することによって彼らがいつ頃グレートブリテン島にやって来たかが判る。しかしそれ以前にイングランドにも石器時代の存在は確認されており、ストーンヘンジなどの巨石による遺跡も残されている。これを建設した民族がどのような民族であったかはよく分かっていない。ケルト人は重量のある犂を使用して先史時代には手がつけられなかった土地を開墾し、紀元前1世紀にはブリテン島の総人口は25万人程度に達していた[1]

紀元前55年ローマのユリウス・カエサルが侵入、43年にはローマ皇帝クラウディウスによってグレートブリテン島の大部分が占領された。ただし、スコットランド、アイルランド地域にはローマの支配は及ばず、この地域のケルト人が度々イングランドに侵入してきたため、ローマ人によって現在のイングランドとスコットランドの境界付近に長城が建設された。ローマはこの地域をブリタンニアと呼んだ。これが現在のブリテン島の起源である。またブリタニア支配の拠点としてロンディニウムを建設した。これが現在のロンドンの起源となっている。又ローマ人は在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。

ローマ人はブリテン島で痕跡が確認されているものだけでも約500か所のヴィラを営み、100か所のタウンを建設した。そして、それらを結ぶ総延長5000マイルを超える道路網や、カー・ダイク(英語版)のような溝渠を建設した。ローマ時代のブリテン島の総人口は50万人から150万人と諸説あり、正確な数はわからない[1]

5世紀になるとゲルマン人の侵入が始まりローマ帝国に混乱が広まった。ローマはブリタニアでの植民をあきらめて大陸へと引き返した。449年アングロ・サクソン人がグレートブリテン島に侵入をはじめ、元々住んでいたケルト系住人はアングロ・サクソン人に征服され同化し、一部はコーンウォールウェールズスコットランドに押し出される形になった。ただしアングロ・サクソン系諸王国が形成されるまでのブリタニアには歴史記録が乏しく、正確なことはあまり分かっていない。
中世
ヘプターキー詳細は「七王国」を参照

グレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人(アングル人ジュート人サクソン人)はノーサンブリアマーシアイーストアングリアエセックスウェセックスケントサセックスなどの7つの王国を建設し、覇権を争った。このイングランドに7つの王国が並立した829年までの380年間を七王国時代と言う。七王国時代の初めに有力だったのはアングル人の王国であった。そのため、ローマはこの地はアングル人の土地と言う意味でアングリア(Anglia)と呼んだ。このアングリアをアングロサクソン風に言うとイングランドとなる。8世紀には七王国のうちアングル人の王国マーシアにオファ王(在位:757年 - 796年)が登場し、イングランドに覇を唱えた。オファはフランク王国シャルルマーニュと対等にわたり合い、西のウェールズとの境にオファの防塁(英語版)を築いた。七王国時代の最後に現れたのはサクソン人のウェセックスで829年にはウェセックス王のエグバートが統一を達成した。この時代の重要な考古学的遺跡は1939年に発掘されたサットン・フーで、イースト・アングリア王国の船葬墓である。
ヴァイキングの侵入

しかしこれと同時にデンマークヴァイキングであるデーン人の侵入が活発になってきた。このデーン人の侵入に対抗してイングランドの中興を担ったのがアルフレッド大王である。しかしその後もデーン人の侵入は続き、1016年にはデンマークのクヌートによってアングロサクソンの王がイングランドから追い出され征服王朝であるデーン朝北海帝国)が成立した。その後アングロサクソンによる王朝が復活したものの、デーンやドーバー海峡の対岸にあるノルマンディー公のイングランドに対する干渉はますます強くなってきた。
ノルマン・コンクエスト

こうした状況の中でエドワード懺悔王が嗣子のないまま死亡すると、その後王位についたエドワードの義弟ハロルド・ゴドウィンソンに対して1066年ノルマンディー公ギヨームノルウェーハーラル3世トスティを擁して異議を申し立て、ノルウェー軍はイングランドに侵入したが(スタンフォード・ブリッジの戦い)、ハロルドはこれを撃退した。ノルマンディー公軍に対してはヘイスティングズの戦いに敗れ、ハロルドは戦死した。ロンドンを占領したギヨームはウェストミンスター寺院においてイングランド王に即位し、イングランド王ウィリアム1世を名乗った。これによりアングロサクソンによる王統は途絶え、征服王朝としてノルマン朝が成立した。ノルマンディー公ギヨームによる一連のイングランド征服をノルマン・コンクエストと言う。

ノルマン朝は征服王朝であり、そのため国王の権限がはじめからかなり強かった。これはイングランドにおいてもっとも早く絶対王政が確立した原因のうちの一つになっている。ギヨームはイングランド王ウィリアム1世としてはフランス王と対等な王であるが、フランスにおけるノルマンディー公ギヨームとしてはフランス王の臣下という奇妙な立場につくことになった。これが百年戦争の遠因ともなっている。
プランタジネット朝の成立

ノルマン朝はわずか4代で王位を継ぐ者がいなくなり、無政府時代と呼ばれるスティーヴン王の治世を経て、1154年フランスのアンジュー伯家から新しい王ヘンリー2世が迎えられた。これがプランタジネット朝である。アンジュー伯もまたフランス国内においてはフランス王の臣下であったので、フランス王とイングランド王の関係はますます複雑なものとなった。またノルマンディー公国とともにアンジュー伯領もイングランド王の支配する土地となったため、フランス王との関係は悪化の方向をたどることになる。


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