ロシア帝国の政治家イワン・ローギノヴィッチ・ゴレムイキンИва?н Логгинович Горемы?кин
生年月日1839年11月8日
出生地 ロシア帝国 ノヴゴロド
没年月日 (1917-12-24) 1917年12月24日(78歳没)
死没地 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 ソチ
第5代大臣会議議長
内閣ゴレムイキン内閣
在任期間1914年2月12日 - 1916年2月2日
皇帝ニコライ2世
第2代大臣会議議長
内閣ゴレムイキン内閣
在任期間1906年5月5日 - 1907年7月21日
皇帝ニコライ2世
第21代内務大臣
在任期間1895年 - 1899年
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イワン・ローギノヴィッチ・ゴレムイキン(Ива?н Ло?ггинович Горемы?кин, Ivan Logginovich Goremykin, 1839年11月8日(ユリウス暦10月27日) - 1917年12月24日(ユリウス暦12月11日)は、ロシア帝国の官僚、政治家。
来歴
官僚(英語版
1882年からは国家評議会第一部主任検察官に就任し、1884年には第二部主任検察官に就任した。ゴレムイキンは長年国家評議会で勤務し、その中で法の支配や行政のあり方についての知識を身に付けていった。また、農務問題の専門家として評価を受け、1891年には「農村における政府の統制に関する法律」の法案作成を担当した後に司法副大臣に就任し、1894年には国家評議会議員に任命される。
閣僚ゴレムイキン(1910年)
1895年に内務大臣に就任し、1896年には枢密顧問官に任命される。ゴレムイキンは超保守主義者としてニコライ2世に忠実な人物であり、アレクサンドラ皇后からも目をかけられていた。内務大臣在任中は恣意的な行政の執行を改めようと試み、また、ゼムストヴォの権限拡大を求める意見書をニコライ2世に提出するなど行政改革に努めた[2]。しかし、改革案は反対に遭い実現せず、1899年に内務大臣を辞任し国家評議会議員に復帰した。1905年には農民の土地所有強化を促進する特別会議の議長に就任する。
1906年5月5日、ニコライ2世と対立し辞任したセルゲイ・ヴィッテの後任として大臣会議議長に就任。5月6日に国家基本法を発布し「十月詔勅」を修正して皇帝を専制君主として再規定した。そのため、ゴレムイキンは召集されたドゥーマと対立し、ドゥーマは皇帝に対し闘う国会として決議を出すまでに至った。また、ゴレムイキンの農地改革案をドゥーマが拒否するなど対立が激化した。1906年7月22日にゴレムイキンは政治的混乱の責任を取り辞任し、後任には内相だったピョートル・ストルイピンが就任した。1914年2月にニコライ2世の要請を受け再び首相に就任したが、ドゥーマはゴレムイキン内閣に対して敵対を宣言した。