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イロコイ連邦の旗
イロコイ連邦(イロコイれんぽう、英: Iroquois Confederacy)またはホデノショニ連邦(英: Haudenosaunee Confederacy)は[注 1]、北アメリカのアメリカ合衆国ニューヨーク州オンタリオ湖南岸とカナダにまたがった保留地を持つ、6つのインディアン部族により構成される部族国家集団をいう。今日ではシックス・ネーションズ(英: Six Nations)の別名で呼ばれることもある[7]。
この連邦の成立は、14世紀ごろと民族学者の間では推測されている[8]。成立当初から、6部族で構成されていたのではなかった。「大いなる法(英語版)」などの呼称で伝わる起源伝承によれば、17世紀に5部族の連合として、今日「イロコイ連邦」として知られる連邦国家が成立した[7]。
イロコイ連邦はアメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)に巻き込まれ[9]、パリ講和条約(1783年)後のスタンウィックス砦条約(1784年)で独立した地位(主権性)をほぼ喪失した[10]。
歴史フランス人からの交易品を身につけるイロコイ族(1722年)1650年のイロコイ連邦の領土18世紀にタスカローラ族が同盟し、6部族連合となった。
「大いなる法(英語版)」などの呼称で伝わる起源伝承によれば[7]、17世紀に、ワイアンドット族(ヒューロン族とも、Huron)のデガナウィダと、モホーク族のハイアワサの調停によって、互いに戦争状態にあった五大湖湖畔のカユーガ族(英語版)、モホーク族、オナイダ族(英語版)、オノンダーガ族(英語版)、セネカ族(英語版)の5つの部族が同盟し、「ホデノショニ 」[注 2]という今日「イロコイ連邦」として知られる5部族連合の連邦国家が成立した。デガナウィダによって設計されたこの部族連合は、18世紀前半にタスカローラ族(英語版)が加わって6部族連合となったのち[6]、アメリカ独立戦争ごろまで強固な結束を保った。5部族の和平を結び連邦の成立を成し遂げたデガナウィダとハイアワサは、「グレート・ピースメーカー (Great Peace Maker)」 として知られている。
イロコイ連邦はヨーロッパ人の到来以前から機能しており、実際の連邦の成立は14世紀半ばまでさかのぼるとする研究もある[7]。また、その成立過程は5か国が一度に結集したわけではなく、モホークとオナイダとオノンダーガの3か国が先に連邦を形成し、のちにカユーガ、セネカが参加したと考えられている。
「イロコイ」の名称は、ワイアンドット族が「イリアコイ(黒い蛇)」と呼んだ通称に、フランス入植者が「ois」を語尾に付け、「イロコワ (Iroquois)」と呼んだのが由来である。彼ら自身は「オングワノシオンニ(我ら長い小屋に住む者)」と自称する。 アメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)に巻き込まれたイロコイ連邦は、イギリス本国(王党派)側に立った陣営と13植民地独立派側に立った陣営に分断されて6部族連合の結束が崩れ、互いに敵として戦い合うことになった(初戦はオリスカニーの戦い)。独立派にとってニューヨーク邦内のイロコイとの戦いは、イギリス側に立つ先住民勢力の制圧という当面目標の達成のみにとどまらず、イロコイの抵抗力を取り除いてその土地を獲得するという長期目標を叶える機会でもあった。[11] 独立戦争が始まるとイロコイ連邦は、イギリス側と独立派の双方から交渉を持ち掛けられて駆け引きの対象となり、注目を受けた。そして、戦闘へ参加するイロコイの集団も現れる。[11]詳細は「カナダ侵攻作戦#背景」、「カナダ侵攻作戦#モントゴメリー遠征隊」、および「シーダーズの戦い」を参照 イングランド国教会の信徒であったジョゼフ・ブラントからの説得を受け入れた[12]モホーク族に、「伝統宗教」的立場をとった[12]セネカ族はイギリス側の陣営として立ち、局外中立を当初目指したオノンダーガ族およびカユーガ族も独立派に襲撃を受けるとイギリス側への協力に回った。プロテスタントの信徒が多かった[12]オナイダ族のほか、タスカローラ族は独立派側の陣営として立った。[13] モホーク族戦士の長ジョゼフ・ブラントとイギリスの共同部隊は、ゲリラ戦を仕掛けて独立派集落に襲撃を繰り返し、独立派に打撃と恐怖を与えた(コブルスキルの戦いやジャーマンフラッツへの攻撃、チェリーバレー虐殺など)。とりわけ、ブラントを除くインディアン諸族の兵とイギリス兵の共同部隊による「ワイオミングの虐殺」は、1778年の夏ごろに戦争全体での優勢を確立しつつあった独立派へ大きな衝撃をもたらした。そうした中、独立派の大陸軍最高司令官であるジョージ・ワシントンはニューヨーク邦内のイロコイ勢力掃討を計画して大陸会議の許可を受け、1779年6月に根拠地の破壊と無力化を目的としたジョン・サリバン少将の遠征が実行された。9月まで行われたこのサリバン遠征でブラントらの部隊が壊滅させられることはなかったが(ニュータウンの戦い)、イロコイの居住地は徹底した破壊を受けて焦土化された。これは、オナイダ族を除くほとんどのイロコイ連邦諸族を明らかに敵として扱うものであった。ブラントは自身に賛同した他のイロコイ連邦諸族の一部も引き連れ、英領カナダを拠点として独立派に対するゲリラ戦を続けた(ラフリーでの一方的な勝利など)。[14]詳細は「サラトガ方面作戦#セントリージャーの遠征隊」および「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)#フロンティアでの戦い」を参照
アメリカ独立戦争と失われていった独立