イレーネ・ディ・グレチア
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イレーネ・ディ・グレチア
Irene di Grecia
クロアチア及びスラヴォニア王妃

在位1941年 - 1943年
別称号アオスタ公妃
スポレート公妃

出生1904年2月13日
ギリシャ王国アテネ
死去 (1974-04-15) 1974年4月15日(70歳没)
イタリアフィエーゾレ
埋葬 イタリア、スペルガ聖堂
結婚1939年7月1日 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
配偶者クロアチア及びスラヴォニアトミスラヴ2世
子女アメデーオ
家名グリュックスブルク家
父親ギリシャ王コンスタンティノス1世
母親ソフィア・ティス・プロシアス
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左端が少女時代のイレーネ。姉エレナ、妹エカテリニを抱く母ソフィア王妃とともに。

イレーネ・ディ・グレチア・エ・ダニマルカ(イタリア語: Irene di Grecia e Danimarca, 1904年2月13日 - 1974年4月15日)は、イタリア王族・クロアチア及びスラヴォニアトミスラヴ2世(イタリア語名: アイモーネ)の妃。ギリシア語名はイリニ(Ειρ?νη τη? Ελλ?δα?)、クロアチア語名はイレナ(Irena)。
生涯

ギリシャコンスタンティノス1世とその王妃ソフィアの次女として、アテネで生まれた。ゲオルギオス2世アレクサンドロス1世パウロス1世は兄、ルーマニアミハイ1世の母后エレナは姉にあたる。

1939年7月、フィレンツェで当時スポレート公であったアイモーネと結婚した。1941年5月、アイモーネがクロアチア独立国国王トミスラヴ2世として即位したことから、イレーネも王妃となった。1943年9月、長男アメデーオが誕生するが、同年10月にイタリア王国が連合国側に降伏したために、母子ともにナチス・ドイツに逮捕された。イレーネと生後間もないアメデーオは、オーストリア強制収容所へ送られた。その後ポーランドの強制収容所へ送られ、フランス軍に収容所が解放されるまで2人は囚われの身であった。

戦後、イタリアを離れアルゼンチンへ向かったアイモーネに同行せず、フィレンツェに残った。1966年の大洪水の際のイレーネの慈善行為を讃え、トスカーナの首都であるフィレンツェは彼女に名誉市民の称号を贈った。1974年、イレーネはフィエーゾレで没した。遺体はサヴォイア家の霊廟のあるスペルガ聖堂へ運ばれ、夫アイモーネの隣に埋葬された。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、イレーネ・ディ・グレチアに関連するカテゴリがあります。

典拠管理データベース

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