イレーナ・センドラー
Irena Sendler
2005年撮影
本名イレーナ・ズグジェムプスカ
(Irena Zgrzembska)
生年月日 (1910-02-15) 1910年2月15日
没年月日 (2008-05-12) 2008年5月12日(98歳没)
出生地 ロシア帝国 ワルシャワ
死没地 ポーランド ワルシャワ
国籍 ポーランド
職業ソーシャルワーカー
ジャンルカトリック教徒の慈善活動家
活動期間第二次世界大戦中
活動内容反ホロコーストレジスタンス「ジェゴタ」の活動
備考
「“英雄”という言葉で呼ばれることに私は大きな抵抗を感じます。実は私はその反対なのですから。私はほんの少しの子供たちしか助けることができなかったことで良心の呵責にさいなまれて生きつづけているのです。」[1]
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イレーナ・センドラー(ポーランド語: Irena Stanis?awa Sendler、1910年2月15日 - 2008年5月12日[2])[3]は、ポーランドの慈善活動家。出生名はイレナ・センドレロヴァ(Irena Sendlerowa)、本名はイレナ・ズグジェムプスカ(Irena Zgrzembska)。第二次世界大戦中は「ポーランド地下国家(Polish Underground State
)」と反ホロコーストレジスタンス「ジェゴタ」の活動家。2500人にものぼるユダヤ人児童を見つからないようにワルシャワ・ゲットーから連れ出し、偽造書類を作成したりゲットーの外の個人やグループの家にかくまったりすることにより救出する活動を行った[1]。カトリック教徒。1910年、ロシア帝国支配下のワルシャワで、双方ともローマ・カトリック教徒であった父スタニスワフ・クシジャノフスキ (Stanis?aw Krzyzanowski) と母ヤニーナ (Janina) の間に生まれた。両親は他人に対し民族や社会的身分にとらわれず敬意と愛情を向ける人物であった。父親は1917年のチフス大流行の際に医師としてワルシャワ近郊の町でユダヤ人をはじめとする貧しい人々の治療にあたっていたが、自身も同じ病で命を落とすことになった。亡くなった父親は、娘に「もし溺れている人に出会ったら、たとえ泳げなくとも助けようとしなさい」と言い遺したという。
イレーナは成長するとワルシャワ大学文学部でポーランド文学
を専攻した。ポーランド独立運動の闘士かつ指導者であったユゼフ・ピウスツキ率いる社会民主主義政党「ポーランド社会党 (Polish Socialist Party)」の党員であった父親の影響でイレーナも社会党に入党、第二次世界大戦前のイレーナはソーシャルワーカーとして活動した。ナチス・ドイツがポーランドを占領していた第二次世界大戦中、センドラーはワルシャワに住み(それ以前はタルチュィン
(Tarczyn) に居住)、社会福祉局に勤務する。ワルシャワ・ゲットーが作られるよりずっと以前からユダヤ人を援助する活動を行っていたセンドラーは、戦争中も彼らの支援に取り組むことになる。ユダヤ人を援助することは大変危険であった。ナチス・ドイツの占領下にあったポーランドでは、ユダヤ人をかくまっているのが発覚した場合、かくまった本人だけでなくその家族もろとも皆殺しにされた[2]。これはナチス・ドイツ占領下にあったヨーロッパ諸国のうちポーランドにのみ適用された厳しい措置であった。