イレアナ_(ルーマニア王女)
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イレアナ王女

イレアナ・デ・ロムニア(ルーマニア語: Principesa Ileana de Romania, 1909年1月5日 - 1991年1月21日)は、オーストリアトスカーナ大公アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(トスカーナ大公レオポルド2世の曾孫)の妃。

ルーマニアフェルディナンド1世とその妃マリアの三女として、ブカレストで誕生。母マリアは長らく父フェルディナンドと不和であり、長兄カロル2世と長姉エリサベタの後に生まれた兄弟たちの父親は、マリアの愛人ではないかと疑問視されていた。しかし、イレアナはその人柄を国民に広く愛されており、愛人に溺れ醜聞にまみれた長兄カロルよりも人気が高かった。そのため、カロルは妹を嫌い、彼女をルーマニア国外へ嫁がせることを画策した。

1931年7月、イレアナはトスカーナ大公家の公子アントンと結婚。それを契機に、兄カロルは国民のハプスブルク家支配への憎悪を巧みに煽り、イレアナとアントンのルーマニア国内居住を禁じた。2人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、6子が生まれた。

シュテファン(1932年 - 1998年)

マリア・イレアナ(1933年 - 1959年) 1957年、コトゥリンスキー伯爵ヤロスラフと結婚、1959年にブラジルで航空機墜落事故に遭い夫とともに死亡。

アレクサンドラ(1935年 - ) ヴュルテンベルク公オイゲン・エーバーハルト(ヴュルテンベルク公アルブレヒト・オイゲンとブルガリア王女ナデジダの次男)と1962年結婚、1972年離婚、1973年にバイロー男爵ヴィクトルと再婚

ドミニク(1937年 - )

マリア・マグダレナ(1939年 - )

エリーザベト(1942年 - )

第二次世界大戦中、夫アントンはドイツ空軍に所属し、イレアナは城をルーマニア傷病兵の病院として使用した。1944年、イレアナは子供たちとルーマニアのブラン城へ移り住んだ。アントンもブラン城へ合流したが、一家は赤軍の監視下に置かれた。それでも、イレアナは城外のブラン村で病院を建設し働いた。

ルーマニア王制が崩壊し、共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われた。イレアナらはスイスアルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカマサチューセッツ州に居をかまえた。彼女はルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え、2冊の本を執筆するなど活動した。この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。亡命ルーマニア人と再婚するが1965年に離婚し、イレアナはフランスでビュシーの生神女庇護修道院に入った。修道女アレクサンドラとなったイレアナは、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米。1981年に引退するまで活動した。1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問した。

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更新日時:2016年5月31日(火)12:26
取得日時:2017/08/19 02:57


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