イルデブランド・ピツェッティ
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イルデブランド・ピツェッティ
Ildebrando Pizzetti

基本情報
生誕 (1880-09-20) 1880年9月20日
出身地 イタリア王国パルマ
死没 (1968-02-13) 1968年2月13日(87歳没)
イタリアローマ
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家・音楽評論家・音楽教師

イルデブランド・ピツェッティ[1](Ildebrando Pizzetti, 1880年9月20日 - 1968年2月13日 ローマ)はイタリア作曲家・音楽評論家・音楽教師。
経歴

パルマ出身。ピアニストで音楽教師であった父オドアルド(Odoardo Pizzetti)から、ピアノと音楽の手ほどきを受ける。最初は台本作家を目指していくつかの戯曲を手懸け、そのうち2作は舞台上演もされている。1895年に音楽家を志して地元の音楽院に進んだ。1897年からジョヴァンニ・テバルディーニ(英語版、イタリア語版)の薫陶を受けて、イタリアのルネサンス音楽に開眼、生涯にわたって自作や著作において影響を受ける。

フィレンツェ音楽院(英語版、イタリア語版)の教壇に立ち、1917年から1923年まで院長に就任。1923年にはミラノ音楽院院長に転出。門人にマリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ、オルガ・ラッジ(英語版)、フランコ・ドナトーニらがいる。音楽評論家としては、イタリア音楽や古代ギリシャの音楽について数冊の著作を残し、音楽雑誌の共同創設者にも名を連ねた。
概論

新ウィーン楽派と同世代で、イタリア新古典主義音楽の推進者に数えられるが、伝統的な調性感や和声法を保っており、実際にはロマン派音楽ないしは新ロマン主義音楽の作曲家と見做されなければならない。器楽作曲の興隆をもくろんだ「80年世代」の一人として、当初はしばらくオペラの分野から遠ざかり、器楽曲や、伝統的なアカペラ様式の合唱曲の作曲に携わった。

日本との関係では、1940年代ファシズム政権と近しかったことをめぐっては、しばしば積極的な評価も聞かれるものの、賛否両論に分かれている。成熟期に作曲された《交響曲イ調》は、「皇紀2600年奉祝曲」として日本政府より打診され、初演された後1940年12月7日に録音された。このように日本とは浅からぬ縁があり、作風も日本において広く好まれているロマン派音楽の伝統に従っているにもかかわらず、現在ピツェッティの作品が日本で広く親しまれているとはいえない。
主要作品一覧

ピツェッティはしばしば近現代の音楽に嫌悪感を示し、初期バロック音楽ルネサンス音楽への回帰をうたったが、叙情的な旋律、半音階的進行を好む和声法、流麗な転調においてロマン派音楽の伝統とつながりを保っており、しばしばセザール・フランクの作風に似ていることが指摘されている。《イ長調のヴァイオリン・ソナタ》(1918年着手、1920年出版)はユーディ・メニューインに、歌劇《大聖堂における殺人 Assassinio nella cattedrale》はカラヤンに愛された。
歌劇

フェードラ Fedra(1909-12年)

イフィジェーニア Ifigenia

クリテンネストラ Clitennestra

ゲラルド神父 Fra Gherardo

オルセーオロ Orseolo

銀の靴 Il calzare d'argento(1962年初演)

大聖堂における殺人 Assassinio nella cattedrale

付随音楽

ピサの少女 La pisanella(1913年)

聖ウリーヴァの劇 La rappresentazione di Santa Uliva(1933年)

その他、ダヌンツィオの戯曲のための劇付随音楽が数曲ある。
映画音楽

ポー河の水車小屋 Il mulino del Po(1949年)


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