市旗市章
愛称 : イルー
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度17分 東経104度18分 / 北緯52.283度 東経104.300度 / 52.283; 104.300
イルクーツク(ロシア語: Иркутск, ラテン文字転写: Irkutsk イルクーツク、ブリヤート語・モンゴル語: Эрх??, ラテン文字転写: Erhuu)は、ロシアのシベリア連邦管区の都市。人口は61万7264人(2021年現在)で、イルクーツク州の州都である。モンゴル国境から約300キロメートル北にある。バイカル湖西岸内陸にあたり、イルクート川とバイカル湖から流れ出るアンガラ川(どちらもエニセイ川の支流)の合流地点の右岸に位置する。
シベリア鉄道が通り、ロシア極東地域とウラル・中央アジアをつなぐシベリア東部の工商および交通の要衝である。ロシア正教会の大主教座が置かれ、劇場や図書館などの文化施設も充実している。また、街並みの美しさから「シベリアのパリ」と呼ばれることもある[2]。
歴史イルクーツクの伝統的家屋ボゴヤヴレーニエ大聖堂
1652年にコサックの一隊が毛皮をとるためにアンガラ川の河畔に設けた宿営地を起原とし、1686年に市としての勅許を得た。
古くから毛皮の集積地、中国の清やタシュケントとの国境交易の基地として使われてきた。18世紀末にイルクーツクに一時滞在した日本人・大黒屋光太夫は、「中国、朝鮮・満州などの人が交易におとずれ繁華な土地である」と述べている[3]。
また、ロシア中央から囚人や政治犯の送られる流刑地でもあり、1825年にはデカブリストの乱を起こした貴族たちはイルクーツクに流された。1863年にはポーランド立憲王国で反ロシア蜂起(一月蜂起)が起き、蜂起の参加者たちがイルクーツクに流された。市内にあるゴシック様式のレンガ造りの教会は流刑にあったポーランド人たちが建設したカトリック教会である。
シベリアへのキリスト教宣教の拠点でもあり、イルクーツクのインノケンティ(ロシア語版)は、正教会では「イルクーツクの奇跡者聖インノケンティ」として聖人とされる。1898年にはシベリア鉄道がイルクーツクまで開通し、1904年にウラジオストクまで延伸された。
日本との関係も深く、最初にロシアを訪れた日本人である伝兵衛が1701年にイルクーツクに滞在したのを皮切りに、多くの漂流者がこの地に永住し、前述のとおり大黒屋光太夫もこの街に往路・復路ともに滞在している。