イリノイ・セントラル鉄道
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イリノイ・セントラル鉄道
(Illinois Central Railroad)
1996年時点のシカゴ・セントラル鉄道(赤)とイリノイ・セントラル鉄道(青)を合わせた地図[1]
イリノイ州ホームウッド (Homewood) にて、列車を牽引する2両のイリノイ・セントラル鉄道のEMD SD70型機関車
報告記号IC
路線範囲アメリカ合衆国中西部から南部
運行1851年–1998年
後継カナディアン・ナショナル鉄道
軌間1,435 mm標準軌
全長3,130.21 マイル(5,037.58 km
本社イリノイ州シカゴ
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イリノイ・セントラル鉄道(イリノイ・セントラルてつどう、: Illinois Central Railroad、報告記号はIC)は、イリノイ州シカゴからルイジアナ州ニューオーリンズアラバマ州バーミングハムを結ぶ路線を主要幹線としていた、アメリカ合衆国にかつて存在した鉄道会社である。しばしば「中部アメリカの本線」(Main Line of Mid-America) と称された。また1870年に開通したアイオワ州スーシティと結ぶ路線も保有していた。さらにアイオワ州フォート・ドッジ (Fort Dodge) からネブラスカ州オマハまでの1899年開通の支線、アイオワ州チェロキー (Cherokee) からサウスダコタ州スーフォールズまでの1877年開通の支線もあった。カナディアン・ナショナル鉄道が1998年に買収して、現在は同社のサザンリージョンの一部となっている。
歴史

イリノイ・セントラル鉄道は、アメリカ合衆国初期の一級鉄道のうちの1社であった。その起源は、イリノイ州議会(英語版)がイリノイ州の北部と南部を結ぶ鉄道に免許を与えようとしたことにあるが、これはうまくいかなかった。1850年に当時のミラード・フィルモア大統領が鉄道建設に際して土地を供与する法案に署名し、これによりイリノイ・セントラル鉄道はアメリカ合衆国で最初の土地供与によって建設された鉄道となった。

イリノイ・セントラル鉄道は、イリノイ州議会によって公式には1851年2月10日に免許を与えられた[2]。1856年に完成した時点では、イリノイ・セントラル鉄道は世界でもっとも長い鉄道であった。その本線は、州の最南部のカイロから、北西の角にあるガリーナまでを結んだ。またイリノイ・セントラル鉄道にちなんで名づけられたセントラリア (Centralia) から分岐する支線が、急速に成長していたシカゴへ結んでいた。シカゴではミシガン湖沿いに鉄道が敷かれ、そして市街地では沖合いに造られた埋立地を通っていたが、さらなる埋め立てや自然の堆積物により現在のように湖岸が東へ移動した。

1867年に、イリノイ・セントラル鉄道は路線をアイオワ州へと延長した。1870年代から1880年代を通じて、イリノイ・セントラル鉄道はアメリカ合衆国南部中で鉄道会社を買収し、あるいは延長していった。イリノイ・セントラル鉄道の路線はミシシッピ州では十字を描き、南はルイジアナ州ニューオーリンズまで、そして東はケンタッキー州ルイビルへと到達した。1880年代には、ウィスコンシン州ドッジビル(英語版)やサウスダコタ州スーフォールズ、ネブラスカ州オマハなどへの北部の路線が建設された。20世紀初頭まで更なる路線が建設された。
イリノイ・セントラル・ガルフ鉄道(1972年 - 1988年)

1972年8月10日に、イリノイ・セントラル鉄道はガルフ・モービル・アンド・オハイオ鉄道 (Gulf, Mobile and Ohio Railroad) と合併してイリノイ・セントラル・ガルフ鉄道(Illinois Central Gulf Railroad、報告記号ICG)となった。同年10月30日に、会社の歴史でもっとも死者の多いシカゴでの通勤列車事故 (1972 Chicago commuter rail crash) が発生した。1980年代には会社は、かつてのガルフ・モービル・アンド・オハイオ鉄道の区間を含む、東西方向の路線のほとんどと、南北方向の重複した路線の多くを別会社に分離した。これらの路線の多くは他の会社に買収され、その中にはこのときに新しく設立された、シカゴ・ミズーリ・アンド・ウェスタン鉄道 (Chicago, Missouri and Western Railway)、パデューカ・アンド・ルイビル鉄道 (Paducah and Louisville Railway)、シカゴ・セントラル・アンド・パシフィック鉄道 (Chicago Central and Pacific Railroad) などもあった。1988年には、その当時イリノイ・セントラル・ガルフ鉄道の親会社であったICインダストリーズ (IC Industries) は残された鉄道事業全てを分離した上で、社名をホイットマン・コーポレーション (Whitman Corporation) へ変更した。同社は2000年にペプシアメリカズ (PepsiAmericas) となり、2010年にペプシコに完全買収された。1988年2月29日に、分離された鉄道部門は社名からガルフを外して、再びイリノイ・セントラル鉄道に戻った。
カナディアン・ナショナル鉄道(1998年以降)

1998年2月11日に、イリノイ・セントラル鉄道はカナディアン・ナショナル鉄道によって買収され、1999年8月1日から統合された運営が開始された。

イリノイ・セントラル鉄道は、カナディアン・ナショナル鉄道の子会社持ち株会社グランド・トランク・コーポレーション (Grand Trunk Corporation) の傘下にある。イリノイ・セントラル鉄道の名前は2001年の鉄道開業150周年の頃まで使われ続けたが、その後カナディアン・ナショナル鉄道の保守作業や機関車の再塗装などにより、次第に同社の名前は消えていった。カナディアン・ナショナル鉄道の塗装に塗り替えられたイリノイ・セントラル鉄道の機関車は報告記号ICを残しており、運転台の脇にレタリングされている。
イリノイ・セントラル鉄道の機関車

イリノイ・セントラル鉄道の6000号機関車(EMD SD40-2型)がミシガン州スクールクラフト (Schoolcraft)でカナディアン・ナショナル鉄道の北行貨物列車を待ち合わせているところ

スクールクラフトにてイリノイ・セントラル鉄道の9636号機関車(GP38-2型)が北へバトル・クリークへ向かうところ

イリノイ・セントラル鉄道の9612号機関車、ミシガン州パビリオンの側線にて、2008年6月18日

イリノイ州カーボンデールで静態保存されているGP11型

旅客列車1850年のイリノイ・セントラル鉄道路線図1892年のイリノイ・セントラル鉄道路線図

イリノイ・セントラル鉄道は、シカゴ-ニューオーリンズ間の本線や、シカゴ-セントルイス間における主要な旅客輸送事業者であった。シカゴ-オマハ間の路線でも旅客輸送を行っていたが、この区間で営業する中で最大の事業者となったことはなかった。最大の旅客ターミナルは、シカゴのミシガン通りの東、12番通りに建っていたセントラル駅であった。メキシコ湾から五大湖まで南北に結ぶ路線のため、1920年代にアフリカ系アメリカ人の大移動を支えた交通機関となった。

イリノイ・セントラル鉄道でもっとも有名な列車は、シカゴからセントルイス、ニューオーリンズを結んでいた豪華なオールプルマンカーのパナマ・リミテッドであった。この列車の運行に伴う損失のため、1967年にパナマ・リミテッドは座席車のみの列車であったマグノリア・スター (Magnolia Star) と統合された。1971年6月1日には、アムトラックがこの列車の運行を開始したが、そのすぐ後に、やはりイリノイ・セントラル鉄道が運行していた昼行の流線型座席列車で、スティーブ・グッドマン (Steve Goodman) が作詞しアーロ・ガスリー (Arlo Guthrie) が歌った曲で有名になった、シティ・オブ・ニューオーリンズの方が残されて、パナマ・リミテッドの名前は消滅した。イリノイ・セントラル鉄道はこの本線沿いに、クレオール (Creole) やルイジアン (Louisiane) などを運行していた。

グリーン・ダイヤモンド (Green Diamond) は、シカゴ、スプリングフィールド、セントルイス間を結んでいた豪華列車である。他の重要な列車としては、シカゴとスーシティの間を毎日結んでいたホークアイ (Hawkeye) や、アトランティック・コースト・ライン鉄道、セントラル・オブ・ジョージア鉄道 (Central of Georgia Railway)、フロリダ・イースト・コースト鉄道 (Florida East Coast Railway) を経由してシカゴとマイアミの間を隔日に結んでいたシティ・オブ・マイアミ (City of Miami) があった。


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