イラン立憲革命
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イラン立憲革命(イランりっけんかくめい、ペルシア語: انقلاب مشروطيت ايران‎; Enqel?b-e Mashr??iyat-e ?r?n)は、1906年から1911年にかけてイランで発生した革命カージャール朝専制に反対し憲法議会の獲得と維持を主要な目標とし、国内の広範な集団を糾合した運動と、これを巡る一連の政治変動を指す。なお、イラン革命1979年イラン・イスラーム革命を指す語として定着しつつあるが、1980年ころまでは立憲革命を指した。このため本項で扱う20世紀初のものを「イラン立憲革命」、1979年のものを「イラン・イスラーム革命」として区別することが多い。
概説

19世紀末、イランを支配するガージャール朝は、数度の戦争の敗北、経済の不振によって急速に弱体化しつつあった。この中でヨーロッパ近代思想の自由主義民族主義にふれた改革派と、弱体化する一方で非常に専制的態度を強化するガージャール朝政権に対して異議を唱える十二イマーム派シーア派ウラマー、さらに外国勢力の経済的支配の強まりに反感をいだくバーザール商人らが結合された。その第1の頂点が1891年12月のタバコ・ボイコット運動であったが、やがて政府に憲法の発布、議会の設置を求める一大運動をおこすことになるのである。これが立憲革命である。

1905年末のテヘランでの物価騰貴を背景として、1905年12月に開始された運動は、1906年前半を通じて粘り強く繰り広げられ1906年8月5日には立憲勅書を獲得することになる。同10月第一議会が招集されてただちに憲法制定の作業に入り、12月に憲法が発布された。ここまでが狭義のイラン立憲革命である。この議会制(第一立憲制)は安定せず、ガージャール朝反立憲派による1908年7月から1909年7月までの揺り戻し(小専制)があった。これに対し立憲派は北部を中心とするイラン各地で抵抗を続け、立憲革命の舞台はテヘランだけではなく全国に広がった。そして再度の立憲派の政権掌握と第二議会の招集(第二立憲制)を経て、ロシア帝国の介入により1911年12月に第二議会は解散され、憲法は部分的に機能が停止される。ここに立憲派は勢力を失い、再びロシア、イギリスの強い影響下に置かれたガージャール朝政府を中心とした政権運営が再開されることになった。一般にイラン立憲革命はここまでの過程を指す。

このようにイラン立憲革命は革命の目的を達することはできず、結果的に見れば敗北した革命であった。しかし立憲革命による混乱は、ガージャール朝の決定的弱体化を招き、パフラヴィー朝への交代の遠因となった。そして1907年憲法はガージャール朝・パフラヴィー朝を通じて幾多の修正を受けつつも、イスラーム革命にいたるまでイラン政治の骨格となったのである。さらに立憲革命への参加者は政治的、経済的、宗教的なさまざまな動機をもっていた。これにより立憲革命は国民意識を覚醒させ国民国家イランの原像となる民族主義的性格、専制に反対し各地に設立された草の根レヴェルの政治組織のような民主主義的性格、イスラームの倫理と法のもとづく運動のようなイスラーム主義的性格など、さまざまな性格を持つことになり、現代イラン史を通じて大きな影響を与えた。のちの石油国有化運動、イラン・イスラーム革命は立憲革命の系譜に連なるものといえる。また、立憲革命期を通じて幅広く発行された新聞やリーフレットはイランにおけるマスメディアの確立をもたらすなど、社会的意義も大きい。
イラン立憲革命の展開

イラン立憲革命は約6年の長期にわたり、対立軸は大きく変化するため、4つの時期に区分されることが多い。本節ではこれに簡略な前史とその後の展開もあわせて叙述する。
前史詳細は「ガージャール朝」を参照

19世紀イランは、ガージャール朝の成立後1世紀も経ずに、西洋の衝撃を主因として混迷を深めつつあった。商人や労働者は周辺諸国への旅や出稼ぎ、官僚は留学を通じてイランの弱体化を思い知らされ、改革への意志を芽生えさせた。このような中で19世紀後半から数度の改革派政権が成立したが、大きな成果を挙げることはできなかった。改革派政権のややもすれば西洋化ともとれる政策は、改革派に見え隠れするバーブ教徒の姿も含め、イランを外国に売り渡す反イスラーム的行動としてウラマーの警戒を招くことになった。このように世俗的近代化論者とウラマーは正反対の要素ともいえるものだったが、イランの強化・外国支配への反対という一点において協力の余地が残っていた。この同盟を推し進めたのがアフガーニーで、1891年のタバコ・ボイコット運動において結実する。

1896年5月1日、アフガーニーの弟子ミールザー・レザー・ケルマーニーがナーセロッディーン・シャーを暗殺、モザッファロッディーン・シャーが登極した。前代の浪費や病弱な新シャー療養には多額の費用を必要としたうえ、土地税収の落ち込み、イランの基軸通貨である銀のスターリング・ポンドに対する世界的暴落で、財政は破綻寸前となり、大宰相・アミーノッソルターン(ペルシア語版)(ペルシア語: ????????????‎)ことMirza Ali Asghar Khan Amin al-Sultan(ペルシア語: ???????? ?????‎)は1900年と1902年の2回、ロシアへの莫大な借款を提案した。


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