在イランアメリカ大使館人質事件
テヘランのアメリカ大使館の塀を乗り越える学生たち
場所 イラン・テヘランアメリカ大使館
標的アメリカ大使館と館員、アメリカ海兵隊員とその家族
日付1979年11月4日 - 1981年1月20日
概要イスラム革命防衛隊率いるイスラム法学校学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠
攻撃側人数数百人
武器拳銃など
死亡者なし
被害者人質52人
損害アメリカとイランの断交
動機イラン元皇帝の亡命をアメリカ合衆国政府が受け入れたことへの抗議
関与者イスラム革命防衛隊と革命政府の保守派
謝罪なし
賠償なし
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イランアメリカ大使館人質事件(イランアメリカたいしかんひとじちじけん、英語: Iran hostage crisis)は、1979年11月4日にイランのテヘランで発生した、イスラム革命防衛隊率いる暴徒によるアメリカ大使館に対する占拠及び人質事件である。
事件は444日間続き、1981年1月20日に解決した。
事件発生へのいきさつ
パフラヴィー皇帝と西側諸国訪米時のパフラヴィー皇帝とリチャード・ニクソン大統領夫妻
第二次世界大戦後のイランは、1941年に即位したパフラヴィー朝の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーが、アメリカをはじめとする欧米諸国からの支援を元に開発独裁と親米化路線を進め、欧米諸国の外国資本の導入に努めた。
また1960年代には、日本の飛躍的な経済成長に注目して「白色革命」に着手し、土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、教育の振興、農村の開発などの民主的改革を実行したほか、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止し、婦人参政権を確立するなど政教分離原則化を進めた。
さらにイスラム圏ではトルコに次いでイスラエルと国交を樹立した[1][2]。この様な近代化および西洋化、そして政教分離政策は欧米諸国から歓迎され、特にアメリカの歴代政権は石油供給の面から、グラマンF-14をはじめとする最新の武器供給や、最新鋭旅客機のボーイング747SPの販売など、様々な支援を惜しまなかった。 しかしこれらの政策は、ルーホッラー・ホメイニーらイスラム法学者の反発を招いた。これに対してパフラヴィー皇帝はイスラム原理主義者をはじめとする急進派を中心にした反体制派を弾圧、投獄するに至った。このため、反体制派は1964年に国外追放を受け亡命し、バクダッドやパリに亡命を余儀なくされていた[3]。 しかし、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化などを受けてイラン経済が不調に陥ったことや、国内の貧富の差が広まったことなどを受けて皇帝に対する国民の不満が高まったことなどを追い風に、反体制派は、次第に農民や労働者階級からの支持を受けることとなった[3]。
反体制運動