イラク武装解除問題
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イラク共和国全図

イラク武装解除問題(イラクぶそうかいじょもんだい)とは、湾岸戦争停戦に際して、停戦条件として国際連合安全保障理事会によって大量破壊兵器の破棄を義務付けられたイラクと、他の諸国の間に生まれた緊張関係を指す。この記事では湾岸戦争停戦後の1991年からイラク戦争が勃発する2003年までの事件を記す。
概要

武装解除の対象とされたのは生物兵器化学兵器核兵器・射程150km以上のミサイル、およびそれらの武器を製造するための設備や資材であり、武装解除を目的とした経済制裁も行われた。しかし大統領のフセインには大量破壊兵器保持をほのめかして中東諸国での影響力を高める意図があったため、査察に対する非協力・隠匿・妨害、また複数回の違反が繰り返された。このため米英両国政府内でフセイン政権打倒論が高まり、イラク戦争勃発の原因となった。戦争後、イラクを占領した有志連合軍と国連組織によってイラク国内での大量破壊兵器捜索が行われたが、大量破壊兵器は存在しなかった。
安保理決議687武装解除の状況を確認する国連職員

1991年に行われた湾岸戦争イラククウェートに侵攻したことがはじまりであり、国際連合安全保障理事会決議660678を根拠として結成された多国籍軍によるイラクへの攻撃により、イラク側が敗れたものである。

国際連合安全保障理事会国際連合安全保障理事会決議687においてイラクとの和平条件を提示した。これにはクウェートからの撤退とともに、核兵器、生物兵器、化学兵器などを含む大量破壊兵器を破棄し、研究・開発プログラムや製造設備なども廃棄することが定められ、その手続きをIAEA(国際原子力機関)や新たに創設されるUNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)によって監視するというものであった。

イラクは湾岸戦争に先立つイラン・イラク戦争1980年-1988年)においてマスタード・ガス神経ガスなどをイランや自国民のクルド人に対して使用したとされる(ただし、クルド人に対する使用は一般に言われるイラク使用説のほかにイラン軍使用説も出ており、真相は明かされていない)。また、湾岸戦争中にも化学兵器や生物兵器をミサイルに装填したとされる。ただし、アメリカが核兵器使用をほのめかす警告をしたため、使用には至らなかった。またバビロン計画による多薬室砲(スーパーガン)の研究も行っていた。またIAEAは、イラクが複数のウラン濃縮技術の実験を行っていたと結論づけた。

武装解除が行われていることを確認するためにUNSCOMとIAEAの専門家チームがイラクに滞在し、関連の技術者に対するインタビュー、貯蔵、製造に関わると考えられる施設への訪問調査などを行った。これらは武器査察団と呼ばれ、生物兵器や化学兵器を含む大量破壊兵器についてはUNSCOMが、核開発についてはIAEAが担当した。
事態の推移
安保理決議688

1991年4月に採択された安保理決議688は、フセイン政権に弾圧された人々を保護するという項目が設けられた。そこでアメリカは少数派クルド人の保護を理由に、1992年から北部・北緯36度以北をイラク国籍航空機の飛行禁止空域とした。また、イスラム教シーア派信者保護を名目に、ロシア連邦の承認を受けたうえ、イギリスフランスと共同で油田の多数存在する南部・北緯33度以南も同様に飛行禁止空域とした。

南部シーア派は、湾岸戦争停戦後にフセイン大統領打倒を目指して反乱を行なった。これはアメリカの読みどおりで、反乱が成功し、フセイン政権に代わる勢力が出来上がれば、それを援助するために侵攻することも計画されていた。ところが反乱は介入できるほど規模が大きくなく、連合軍の介入がないと読んだフセインによって武力で制圧され、反乱組織は虐殺されたとされる。それを証明すると思われる白骨化死体がイラク戦争直後に発掘されている。
制裁攻撃

フセインは安保理決議688を不服として、戦闘機による飛行や地対空ミサイル配備などを行っていた。また、UNSCOMの査察により、ウラン濃縮施設やミサイル部品工場が存在しているとの疑惑が示された。これらを挑発行為と受け取ったジョージ・H・W・ブッシュ大統領は退任3日前の1993年1月17日(湾岸戦争開戦2周年)、イラク制裁を旨としてイギリスフランスと共にトマホークミサイル45基を中心とした攻撃を行い、疑惑のザーファラエニ工場(バグダッド)を破壊し、戦闘機の撃墜や空軍施設の空襲を行った。

新たに就任したビル・クリントン大統領も同年6月26日、23基のトマホークで情報施設を攻撃した。理由として、4月にブッシュがクウェートを訪問した際に暗殺計画があったことを挙げた。

1995年、フセイン大統領のいとこに当たるフセイン・カーミル・ハサン中将が亡命し、イラクの生物兵器開発計画を暴露した。イラクはこれまで生物兵器の開発を否定していたものの、これ以降は認めざるを得なくなった。これ以降UNSCOMは抜き打ちでの調査を開始し、イラクの反発を買うことになる[1]

その後、クルド人過激派によるテロなどの行動が激しさを増し、国境を越えた広がりをもった。そのためトルコは、クルド人過激派の掃討のため、1995年にイラク北部へ越境攻撃を行った。イラク自身も1996年8月にクルド人地域イルビルを攻撃したが、アメリカは9月3日から4日まで44基のトマホークで軍事施設に攻撃を加え、8箇所の防空ミサイル施設、7箇所の防空指揮管制施設を破壊した。「クルド人」も参照
石油食料交換プログラム詳細は「石油食料交換プログラム」を参照

イラクに対する国際連合の経済制裁は戦後も継続されていた。このため1995年4月14日に国際連合安全保障理事会決議986が採択され、経済制裁下で国民生活が困窮しないよう、イラクから産出する石油の限定的な輸出を認めたものであった。国連制裁監視委員会がこの輸出を管理し、石油の売却資金によってイラクが軍事物資・兵器を購入しないように監視していた[2]

計画事務所所長にはキプロス人のベノン・セヴァンが就任し、輸出先企業の選定に当たった。当初は半年当たり20億ドルという制限があったが、1999年に制限は撤廃された。この計画で輸出された石油の総額は約7兆5千億円(2003年5月時点)にのぼり、[3]、主な輸出先であるロシアやフランス、中国の事実上の石油権益となっているという指摘が行われた。
砂漠の狐作戦

イラクは1997年以降、アメリカ側の意図が査察団に影響していることや、元アメリカ軍の諜報関係者であったUNSCOMの主任検査官スコット・リッターによる抜き打ちの捜査に反発し[1]、UNSCOMの査察を妨害し始めた。安保理は安保理決議1115、1134、1137でイラクを批判したが、イラクの姿勢は改善されなかった。

1998年1月28日、アメリカのオルブライト国務長官はイラクが査察を受け入れない場合、アメリカは単独攻撃を行うと表明した。しかし、支持を表明したのはイギリスと日本(当時は安保理非常任理事国)だけで、ロシア、フランス、中国などはいずれも反対の構えを見せた。2月23日、国際連合のコフィー・アナン事務総長とイラクのターリク・アズィーズ副首相の会談で、イラクは査察受け入れを表明した。日本はイギリスと共に、イラクの査察受け入れ違反は「イラクにとって最も重大な結果(severest consequences)をもたらす」と最大級の文言[4]で警告する内容の決議案を提出し、3月2日決議1154として成立した。小和田恒国連大使は「最も重大な結果」の文言について、「武力行使を容認するとかしないとか言っているのではない」と主張したが、アメリカ側には「(軍事)行動に移す権限を認めたもの」(クリントン大統領)と受け止められた。8月には大量破壊兵器についての査察協議は物別れに終わる。10月31日、イラクの最高指導機関である革命指導評議会はUNSCOMとの協力を全面的に停止することを決定した。11月15日、安保理は決議1205でイラクを非難した。イラクは17日からUNSCOMの査察を受け入れたものの、12月15日にはバトラーUNSCOM委員長から「イラクの完全な協力は得られなかった」と安保理に報告がなされた。


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