イラクのナショナリズムは、イラク人のアイデンティティに根ざしたナショナリズムのことである。イラクのナショナリズムは古くはバビロニア文明やアッシリア文明を含むメソポタミアに由来する。[1]歴史上、イラクのナショナリズムはオスマン帝国やイギリス帝国による支配に影響を受けており、独立を達成して建国されたイラク王国やその後のバアス党による統治につながっている[2]。アメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステインは、イラク戦争中にアメリカ軍による占領下に置かれた際にレジスタンス活動が行われた主要な要因としてイラクのナショナリズムを挙げている[3]。
イラクのナショナリズムには2つの方向性がある。一つは、イラクという国家において、アラブ人とクルド人をメソポタミアの文化遺産と結びつける人種とし対等であるとみなす見解である。この見解はアラブ人とクルド人の融合を図ったアブドルカリーム・カーシムによって促進された[4]。2つ目は、国家としてのイラクのナショナリズムと、アラブ国家としてのアラブ・ナショナリズムの融合である[5]。サッダーム・フセインはイラクのアラブ人である古代メソポタミア人の起源と遺産への評価はアラブのナショナリズムを補完するものであると考えていた[5]。バアス党の政治体制は歴史的なクルド人ムスリムのリーダーであり、十字軍との戦いにおいてエルサレム奪還を成功させたサラーフッディーンをイラクの愛国の象徴として取り込んだ[6]。
イラクのナショナリストアブドルカリーム・カーシム
イラクのナショナリズムは古代シュメールやバビロニア、アッシリアといった、文明のゆりかごであるメソポタミアを基調として語られることが多い。
特に、バビロニアを統治していたネブカドネザル2世とクルド人ムスリムの指導者であったサラーフッディーン(サラディン)はイラクのナショナリズムの象徴的な存在となっている。
汎アラブ主義が台頭してきた1920年代にイラクにおけるナショナリズムの原型が出来上がった[7]。1930年代までにイラクの知識人層においてイラクの国家や領土に関するアイデンティティが形成され、第二次世界大戦を通して発展した[7]。イラクのナショナリズムとアラブ国家としてのナショナリズムには多少乖離が存在していたが、これらは互いに影響し合い、同化してきた[7]。イラクのナショナリズムはアル・ハティフのような政党新聞において、国内の文化によってイラクのナショナリズムを高め、アラブ文化を報道することによってアラブのナショナリズムを示すなど、アラブのナショナリズムと相互補完する形で主張されてきた[5]。
ハーシム家による王政が行われていた時代には、アラブの枠組みからはみだす形でのイラクのアイデンティティが語られることも一般的であり、イラクの土地や部族、イラク独自の詩や文学を強調した作品の出版や教育が行われていた[7]。1930年代はじめに、イラクの歴史家はイギリスからの独立をイラクの歴史において現在のイラクの原型となるアイデンティティを備える国家が初めて形成された瞬間とし、大イラク革命と呼んでいる[7]。
初期のイラクのナショナリズムについてはっきりと表明した知識人にはアブド・アル=ラッザーク・ハサニやアッバース・アッザウィがいる[8]。ハサニはイギリス委任統治領メソポタミアについて、1930年代に出版された自著イラク統治の歴史(1950年代に第2版発行)の中で厳しく批判した上で、イラク王国初代国王ファイサル1世を支持し[8]、イラクのナショナリズムについて強い支持を表明している[8]。