イメージの詩
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「イメージの詩」
よしだたくろうシングル
初出アルバム『よしだたくろう 青春の詩
B面マークII
リリース1970年6月1日
規格EPレコード / EB-1004
ジャンルフォークソング
レーベルエレックレコード
作詞・作曲よしだたくろう
よしだたくろう シングル 年表

イメージの詩
(1970年)青春の詩
(1971年)

よしだたくろう 青春の詩』 収録曲

今日までそして明日から
(11)イメージの詩
(12)


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「イメージの詩」(イメージのうた)は、よしだたくろうデビューシングル。1970年6月1日にエレックレコードから発売された。
概要

シングル『青春の詩』などと共に「広島フォーク村」時代に制作した楽曲[1][2]ボブ・ディランの「Desolation Row(廃墟の街)」にインスパイアされて作ったとされ[3]、吉田拓郎と広島フォーク村は、この一曲によって世に知られるようになったとも言われ[2][3]日本のフォーク関東でも関西でもない別の流れがあることを強く印象付けた[1][2]。本楽曲は吉田も参加した「広島フォーク村」名義のオムニバスアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』に収録。アルバムは当初、インディーズで発売されていたが、後にエレックでも発売された。これを機にシングルカットされたが、吉田の許可を得ていなかったうえ、アルバムと同一バージョンを雑に編集したお粗末な物だったため再録音された。現在は、この再録音バージョンが正式なデビューシングル「イメージの詩」として認知されている。再録音盤の演奏は沢田駿吾カルテットが担当した。

THE ALFEE坂崎幸之助は、高校入学前に本楽曲に出会い「何なんだ、この字余りな歌は」と驚き、吉田にどっぷりはまったという[4]。高校は落ちこぼれていったが、吉田の歌で助けられたと話している[4]。坂崎は無許可発売シングル盤と再録音シングル盤を個人所有しており、2009年8月20日に放送された「わが青春の吉田拓郎!坂崎幸之助のオールナイトニッポンGOLD」にて両シングルのイントロからの一部を流して聴き比べた。坂崎は当番組の数年前にフリーマーケットでシングル盤を買った時は既に所有していた無許可盤とレコード品番が同じEB-1004であった為、シングルジャケットの色が褪せてるだけだと思い敢えて聴かずレコード棚に仕舞ったが、後に再録音盤である事が判明したという。ラジオで無許可盤と再録音盤の聴き比べをした時、無許可盤の編集があまりに雑であった事に対し素人が曲の編集をしたのではないかという旨の批評をした。

最初の無許可で発売されたシングル盤は、回収されているのとあまり売れていなかった為にレアである。その後、アルバム『青春の詩』にも収録され、このバージョンはシングル盤よりも長く、バックの演奏も異なっている。『青春の詩』収録のシングルバージョンの「イメージの詩」はタイムスリップグリコのおまけとしてCD化。後に「イメージの詩」「マークII」とも限定シングルボックス『HAVE A NICE DAY』でCD化。また、ベスト・アルバム『拓郎ヒストリー』や『エレックシングルボックス』にも収録されている。
解説

音楽雑誌YOUNG GUITAR』は1970年7月号で、本楽曲について「実に素朴なメロディラインに単純なギター伴奏をつけて、心に浮かぶ社会や人間のイメージをまさに心のままに歌い上げていく。42番まで続くこの歌は、そのまま42個のイメージの詩であると同時に42曲の楽曲である。相互に何の関連もないと思われるようなイメージが次々にメロディの中に織り込まれ、聴いている者はその間、ただ迫力ある歌と一つ一つの詩に引き込まれる。歌が終わって振り返ってみると、全く関係のなかった詩が全体のイメージを通して、一つのドラマを形成していることに気づくだろう。しかもそのドラマは解釈の仕方で全く違うドラマ、言いかえるなら3千人の人が聴いたら3千のドラマが『イメージの詩』を通して設定されているようである」などと解説している[5]

吉田拓郎はデビュー曲であるこの曲で、それまでの若者が聞いたことがなかったような普段着の言葉と飾らないメロディを引っさげて音楽シーンに登場した[6]スージー鈴木は「60年代に人気を博したクラシカルでエレガントなグループサウンズとは異なる、心の奥底をさらけ出すような言葉遣いは拓郎が持ち込んだと言っても過言ではない」と論じている[6]

拓郎自身は、明確な政治的イデオロギーを持っていなかったとされるが[7]、「イメージの詩」には70年安保敗北後の時代の空気が色濃く滲む[7]。拓郎は宝島のインタビューで、本曲の成立の背景として、家族バラバラだった生い立ちが影響していると話している[8]

歌詞は冒頭から「信じれるものが」と「ら抜き言葉」が出るが、ら抜き言葉なのか広島弁なのかは分かっていない[9]

武田鉄矢は、福岡教育大学二年のときに「広島商科大学(現・広島修道大学)に吉田拓郎っていうのがいるらしい」という噂は流れて来て知っていた[10]。1970年夏に隣町の広島フォーク村なる集団から自主制作版のLPレコードを同好の誼みで買い取ってくれないかとの依頼あり[10][11]、伊藤明夫広島フォーク村村長が風呂敷に『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を包んで会いに来た[10]。伊藤は謳い文句として「吉田拓郎はオリジナル400曲を持っている」と言った[10]。武田の当時のオリジナルは4曲で「そんな大学生がいるのか」とどの程度の腕前か、多少上から目線で自宅で試聴した[11]。LP盤に針をおいて、流れて来た一曲目『イメージの詩』に驚愕唖然[10][11][12][13]。冒頭「『これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか…』って、ほとんど哲学。こんな曲は聴いたことない。彼だけにしか作れない歌詞。メロディーもよく、ディランを彷彿とさせる低く重い歌声に何から何まで吉田拓郎は異質」などと感じた[10][11]アマチュアの域を遥かに超えた才能で、若いときは人の才能を認めないところが意地としてあるが、ちっちゃい声で「負けてるわ」と言ってしまったという[10]

拓郎の右腕でビジネスパートナーだった後藤豊(後藤由多加)は、「イメージの詩」の冒頭の一節「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか」という歌詞を聞き、「こんな言葉をはっきりと歌にする彼の凄さを感じて、彼はきっとこの音楽で世界を席巻するだろう、とアマチュアからプロとして仕事をしていこうと決意した」などと話している[14]。後藤は拓郎に話を持ち掛けて音楽事務所・ユイ音楽工房を設立するが[15]、拓郎は最初の就職先だったレコード会社社員契約して、アーティストとしての儲けを会社に搾取されていたため[16]、金を持っておらず[16]。ユイ音楽工房の運営は、後藤が早稲田大学時代に所属した「早稲田大学企画構成研究会」で、度々主催した拓郎たちフォークシンガーを出演させたフォークコンサートで儲けた金で行われていたといわれる[17]。これらは後にスチューデント・ビジネスとして学生の行う事業が注目されたが[17]、そのハシリでもあった[17]。拓郎が1974年リリースしたアルバム今はまだ人生を語らず』で「ペニーレインでバーボン」と歌われて有名になった原宿ジャズ喫茶「ペニーレイン」をユイ音楽工房が経営していたのはこのような事情による[17][18]

当時多くの若者が、冒頭の「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか」という歌詞に驚いた[11][14][19]

明石家さんまが最愛の曲と話し[20]、「人生の教科書」と述べている[20]ヒコロヒーは「拓郎さんは何手も先に時代をみていたのかな」などと評した[21]。特に歌詞の一節"古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう"は、収録アルバムのタイトルに使われた他、世代交代などを現す表現として引用されることも多い[22]大貫憲章クイーンオペラ座の夜』のライナーノーツで、「イメージの詩」の歌詞を引用してロックの時代の変化を書いた[23]

業田良家の代表作『自虐の詩』のタイトルは、本曲からインスピレーションを受けてつけたという[24]
エピソード

拓郎自らレコードの梱包作業を行い、トラックに積み込んでレコード店を回り、パイオニア(現・オンキヨー&パイオニア)のステレオ新商品の全国キャンペーンに帯同し店頭で歌うこともあった。これに関して拓郎は「外タレ前座はよく聞くが、機械の前座をやったのは俺くらいじゃないか」と述べている。当時の音楽状況はメッセージフォークやカレッジフォークも下火となった時期で、テレビ・ラジオ局、雑誌関係者から「今さらフォーク?」と揶揄された。レコードは売れなかったが、友人4?5人で葉書や電リクをせっせと送り『オールナイトニッポン』で1週だけリクエスト1位になったという[25]
収録曲

全作詞・作曲:
吉田拓郎

イメージの詩

マークII

タイトルは、「広島の喫茶店で女の子と待合せをして、女の子が来て立とうと思ったら、逆の方向から格好良い男の子が来て、その女の子が男の子と腕組んで自分の目の前を通り過ぎてしまった。その時、目の前を(トヨタの)(コロナ)マークIIが通り過ぎた」それだけで付けたと話している。

拓郎の楽曲の中ではあまり深く考察されることのない曲であるが[11]、武田鉄矢は2020年の著書『老いと学びの極意 団塊世代の人生ノート』の中で22頁にも亘って「マークII」論を書いている[11][13]。私見ですが、と前置きしているが、要約すると、「マークII」は、ある意味他愛もないラブソングで、月並みな言葉が並び、ワンコーラスの詞の出来は「凡」。しかしベタなラブソングを低く重く歌った吉田拓郎は締め括りに異様な情景を置く。それがー年老いた男が川面を見つめて時の流れを知る日が来るだろうかー わずか2分45秒のラブソングであるが、その短さの中で、吉田拓郎なる若い詞人は幼い恋をしている現在の自分を老いてしまった未来の自分を見つめているという文学の手法で歌っている。未来完成形で恋を歌っており、これは驚くべき才能で、前例の作品はない。吉田拓郎はこのわずか数年後にフォークソングムーブメントの渦中に立つ人となり、日本の歌謡界のトップグループに躍り出て、J-POPを牽引する最初の才能になった。70年代初め、彼は異質で、唯一無二だった。御本人が聞いたら激しく否定なさるでしょうけど、私は吉田拓郎はJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に繋がる人だと思います....日本でその系譜を継ぐのが吉田拓郎です。「マークII」に登場した「時の流れを知る」「年老いた男」はそのまま拓郎の唄声の中に棲み続けます。「年老いた男」はやがて70年代の歌謡の中に棲み、多くのヒット曲の中に潜むことになる。


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