イメルダ・マルコス
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フィリピン共和国政治家イメルダ・マルコスImelda Romualdez Marcos
イメルダ・マルコス(2008年7月)
生年月日 (1929-07-02) 1929年7月2日(94歳)
出生地 フィリピン マニラ
出身校セントポール大学
称号学士
特命全権大使
配偶者フェルディナンド・マルコス
子女ボンボン・マルコス
下院議員
在任期間1995年6月30日 - 1998年6月30日
在任期間2010年6月30日 - 2019年6月30日
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イメルダ・マルコス(Imelda Romualdez Marcos、1929年7月2日 - )は、フィリピン共和国の政治家。第10代大統領フェルディナンド・マルコス夫人。前下院議員。マニラ首都圏知事、環境住居大臣、新社会運動(英語版)党首を務めた。鋼の蝶(英語: Steel Butterfly)[1] または鉄の蝶(英語: Iron Butterfly)という異名がある[2]
略歴
生い立ち

1929年、弁護士ヴィセンテ・ロムアルデスと後妻レミディオスの長女としてアメリカ植民地であったフィリピンのマニラで生まれる[注 1]。異母兄姉が5人おり[4]、その後、弟と妹が5人できた[5]。1歳違いの弟にココイ・ロムアルデス(英語版)がいる[6]

1938年、8歳で母レミディオスを肺炎で失い、同じころ、父ヴィセンテの弁護士の仕事も減少した。ヴィセンテは生活上の困難のため出身地レイテ島タクロバンに家族と帰り、思春期をタクロバンで過ごす。生活は厳しくイメルダは母の形見の装飾品を売って家計の足しにしていた。1938年から1948年の高校卒業まではタクロバンのホーリー・インファント学院で英語を学び[7][8]1944年アメリカ軍がレイテ島に上陸した時はダグラス・マッカーサーの前でフィリピン解放を祝った歌を披露した[9]第二次世界大戦後の1946年にフィリピンは独立している。1951年セントポール大学(英語版)で教育学学士号を得て卒業し[6][10][11]、地元の中国人学校の教員を勤めていた[12]
青年期

1952年、従姉の勧めで従兄の家に同居することになりマニラへ戻った[13]。マニラに来てからは音楽店の歌手として働いていたが父の反対に遭い[14][15]1954年までフィリピン中央銀行秘書として働いていた[2]。また、サント・トーマス大学声楽を学び、フィリピン女子大学(英語版)音楽芸術学部の聴講生として勤務の傍らの時間を縫って通っていた[16]。この頃にはミス・コンテストに相次いで出場し、「タクロバンの薔薇」「ミス・レイテ」「ミス・フィリピン」のタイトルを獲得している。1953年にはマニラ・クロニクル(英語版)が出版する雑誌「ジス・ウィーク」のバレンタイン特集号で表紙を飾ることとなった[17]

同年3月「ミス・マニラ・コンテスト」に出場したが次点と発表された。しかし、票の集計には市長の代理人が立ち会っておらず、イメルダは票集計の不正が行われたものとしてアーセニオ・ラクソン(英語版)マニラ市長に異議を申し立てた。ラクソン市長もイメルダの抗議は合理性があると考え、コンテストの優勝者はイメルダであると発表したが判定は覆らず、市長の配慮から創設された「マニラのミューズ」の称号をイメルダに授与した[10][18]。この騒動はイメルダの写真付きで新聞に取り上げられ、後に伴侶となるフェルディナンド・マルコスはこの記事で初めてイメルダを知ることとなった[19]

1954年4月、マニラにおいてイメルダとフェルディナンドは出会った[20]。イメルダを見初めたフェルディナンドは執拗にイメルダに迫り、根負けしたイメルダは結婚契約書にサインした。それは2人が出会ってから僅か11日後の出来事だった[20]。同年5月1日にフェルディナンドとイメルダは結婚した。フェルディナンドは当時史上最年少で下院議員となった注目される政治家で、結婚式立会人ラモン・マグサイサイ大統領、フィリピン国民党(英語版)、フィリピン自由党の代議士が務める政治色が強いものであった[21]

この結婚により、イメルダは政治家の妻としての役割をフェルディナンドに求められた。政治とはこれまで無縁であったイメルダにとって、このことは相当な重圧となり偏頭痛となってイメルダを襲った。イメルダは治療のために米国の精神科へ赴き診察を受けている。この結果、イメルダの症状は少しずつ改善に向かい1960年頃には模範的な政治家の妻となる決意を固めることができた[22]。フェルディナンドが各地の遊説にイメルダを同伴するようになったのもこの頃からである[23]

イメルダは、1964年の大統領候補指名獲得のための国民党大会および、翌年の大統領選で国中の政治家を訪れ、フェルディナンドが大統領となるのに助力した[6]。訪れた自治体は1200か所に及び、そこでは応援演説や歌を歌い、フェルディナンドに対する支持を募っている。フェルディナンドは、この彼女の貢献に対して「彼女は少なくとも100万票を稼いでくれた」と述べ、政治家の妻としてイメルダが果たした役割を労った[24]

イメルダは、フェルディナンドとの間に長女アイミー(英語版)、長男フェルディナンド・ジュニア(ボンボン)、次女アイリーン(英語版)の3人の子を儲けた。
大統領夫人右からイメルダ夫人、アメリカのリンドン・B・ジョンソン大統領、マルコス大統領、ジョンソン夫人マルコス大統領とイメルダ夫人、中央はアメリカのロナルド・レーガン大統領


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