イマニュエル・ウォーラーステイン
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イマニュエル・ウォーラーステイン2008年5月、サンクトペテルブルク欧州大学での研究集会にて
人物情報
生誕 (1930-09-28) 1930年9月28日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
死没2019年8月31日(2019-08-31)(88歳)
アメリカ合衆国コネチカット州ブランフォード
出身校コロンビア大学(BA、MA、PhD)
学問
研究機関コロンビア大学
マギル大学
ビンガムトン大学
社会科学高等研究院
イェール大学
博士課程指導教員ロバート・ストートン・リード
主な指導学生ビバリー・J・シルバー
マイケル・ヘクター
ジョン・R・ローガン
主な業績世界システム論
影響を受けた人物カール・マルクス
ウラジーミル・レーニン
ローザ・ルクセンブルク
フェルナン・ブローデル
アンドレ・グンダー・フランク
ラウル・プレビッシュ[1]
カール・ポランニー
ヨーゼフ・シュンペーター
ジークムント・フロイト
フランツ・ファノン
イリヤ・プリゴジン[2]
公式サイト
http://www.iwallerstein.com/
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イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein、1930年9月28日 - 2019年8月31日[3])は、アメリカ社会学者経済史家。巨視的な観点から世界の歴史と社会全体を「単一のシステム」と捉える「世界システム論」を提唱・確立したことで知られる。

ウォーラーステインの研究は政治経済学社会学、歴史学など様々な分野を横断するもので、マルクス唯物弁証法史的唯物論や、国際政治経済学の「従属理論」、それに歴史学のアナール学派の代表的存在であるフェルナン・ブローデルがとなえた「長期持続」の視点などを踏まえるものだった。世界システム論では、大航海時代が齎した世界規模の交易をきっかけに、世界全体が政治的、経済的、社会的な差異を越えて機能する一つのシステムとなり、それが今日にまで続いていると説明される。
略歴

1930年ニューヨークユダヤ人家庭に生まれる。両親はガリツィア出身のポーランド系ユダヤ人アシュケナジム)で、第一次世界大戦が勃発した1919年にベルリンへ移住し、その後の1923年にニューヨークへ移住した。精神分析医のロバート・S・ウォーラーステイン(Robert S. Wallerstein)は兄。ハイスクール時代は第二次世界大戦の最中であったが、常に家庭で世界情勢についての意見が交わされるような政治意識の高い一家であった。

1947年コロンビア大学に入学。1954年に著されたコロンビア大学社会学部の修士論文[4]では、マッカーシズムが共産主義か反共産主義かの選択を迫るイデオロギー的外観を持ちながらも、実際の行動としては、中道から右よりの政治勢力における内部的な権力闘争のためのプログラムとして機能し、実は共産主義そのものに対して関心がほとんど払われていないと論じた。ここに、イデオロギー的な二項対立状況の総体にたいする拒否とともに「実行可能性」をキーワードにして具体的な政治選択について分析をおこなうウォーラーステインの姿勢が表れている。この姿勢は、冷戦時代において何事も二項対立に還元しようと発想する冷戦思考を批判するものであり、のちに「反システム運動」の概念を生み出したように、ウォーラーステインの思想を貫くものの一つであった。

1955年フォード財団アフリカ・フェローシップを得てアフリカに留学、ガーナコートジボワールにおける民族解放運動をテーマに博士論文[5]を書き、アメリカのアフリカ研究において指導的立場に立つこととなった。1959年、コロンビア大学で学位を取得、1958年より母校で教職につき、1960年代初頭には、フランツ・ファノンの紹介者としても活動した。なお、公刊された初の単著は『アフリカ?独立の政治学』(1961年)であった。

1966年には編書『社会変動?コロニアル状況』を刊行したが、ここではまだ反植民地主義的な論文と近代化論的な論文が混在していた。1967年刊行の前掲『アフリカ?独立の政治学』では、はじめて「世界システム」の語が登場している。

アフリカ統一運動の行動のフィールドはアフリカではなく世界である。というのは、その目的は単にアフリカの変革にあるのではなく、世界の変革によってアフリカを変革することにあるからである。その敵が内部にあることはたしかであるが、その内部の敵は外国勢力の代理人であると見なしうる?この考え方が「新植民地主義」の概念の本質である。したがってわれわれは、アフリカ統一運動の発生を世界システムの観点から分析しなければならない。なぜなら、この運動に対して、その行動の自由を与奪しうるのは、世界システムの状況変化にほかならないからである ? Wallerstein, Immanuel(1967), Africa:The Politics of Unity, London, Pall Mall Press, p.237

ただし、山下範久によれば、この段階では「世界システム」の語は依然「冷戦構造」程度の意味合いしか持っていないという[6]

1968年4月下旬の「コロンビア学園紛争」を契機に世界システムそのものを分析対象とするようになり、1971年、同大学を離れ、カナダのマギル大学社会学教授となり、1973年には43歳で米国アフリカ学会の会長職についた。コロンビア大を離れたあとのウォーラーステインはフェルナン・ブローデルに出会ってアナール学派の歴史学を学び、世界システム論の提唱者となって、1974年、資本主義経済を史的システムとする『近代世界システム』第1巻を発表した。

1976年、ニューヨーク州にあるビンガムトン大学に社会学の特待教授(-1999年)として迎えられ、世界システム論研究の中心となるフェルナン・ブローデル・センター[7](正式名称は「経済・史的システム・文明研究のためのフェルナン・ブローデル・センター」)長に就任した(- 2005年)。1979年には、世界システムの視野にもとづいて現代世界の分析をおこなった諸論文を収載した初の論文集『資本主義世界経済』を、1980年には『近代世界システム』第2巻を刊行した。

ウォーラーステインは世界の大学で客員教授に任じられ、複数の名誉ある地位を得た。パリにあるフランス国立社会科学高等研究院[8]の客員研究主任[9]を何度か務め、1994年から1998年の間は国際社会学会会長となった。1990年代には社会科学の再構築を目的とするガルベンキアン委員会[10]の委員長となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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