『イポリートとアリシー』(フランス語: Hippolyte et Aricie)は、ジャン=フィリップ・ラモーが作曲したプロローグを備えた5幕のフランス語のオペラで、トラジェディ・リリック(抒情悲劇)[注釈 1]とされている。1733年10月1日にパリ・オペラ座にて初演された。リブレットはシモン=ジョゼフ・ペルグラン(英語版)がジャン・ラシーヌの戯曲『フェードル』、エウリピデスの『ヒッポリュトス』、セネカの『パエドラ(英語版)』を題材として作成した[2]。 ラヴォアによれば、ラモーが定住するためにパリにやって来た時、彼はオルガン曲、クラヴサン曲の人気作曲家となっており、世評の高い理論家ともなっていたが、さらに劇場での栄光も欲した[注釈 2]。彼の力強い天才はまさにその方向に向いていた。ただ劇音楽においてのみ、彼はその数々の発見を応用し、自分がその秘密を良く知っている素晴らしい音の言葉を語ることができたのである。しかし、この大胆で意志強固な天才は、凡庸な詩人の拒絶や軽蔑にさらされ、世の才人たちからは嘲笑され、劇場支配人たちからは楽譜を突き返され、一般聴衆からも信頼されず、約10年も空しく時期を待たねばならなかった。1733年10月1日に『イポリートとアリシー』の総譜が現れたとき、それはもはや音楽界における反乱などではなく、紛れもなく革命だった[3]。 1733年10月1日の初演は成功を収め、同年12月26日にはヴェルサイユでも上演された。初演から翌年にかけて約40回連続上演された。主な再演としては1742年9月11日から約43回と1757年2月25日から約24回上演された[4]。 この『イポリートとアリシー』という問題作は、ラモーが50歳の時書かれたが、当初は様々なトラブルを引き起こした。歌手たちの何人かはオペラの難しい部分を歌いこなせず、あるいは歌いこなす気がなかった。物語の構成を批判されたことも加わって、何カ所もの削除を余儀なくされたため、作品の劇的な効果はひどく弱められた。―中略―また、他の作曲家と台本作家からは職業上の嫉みをもたれた。1742年と1757年に、それにラモーの死後に再演され、好評を博したものの、彼の他のオペラのような評判を得たことはなかった。しかし、今日ではラモーの最高傑作の一つとして正当に評価されている[5]。 フレデリック・ロベールによれば、本作の上演が18世紀の音楽論争の口火となる。「ラモー派」[注釈 3]と頑なにモデルを守る「リュリ派」[注釈 4]が対立する[注釈 5]。ラモーは終局的にはモデルに違反したのではなく、それを乗り越えたのであった。ストーリーやアリアを強調する転調の新しいコンスタントな豊かさ、筋の運びと巧妙に溶け合い、ホモフォニーあるいはフーガ様式で構成されたコーラスの多様性、バレエ曲の魅力、汲み尽くせないほど豊かに湧いて来るメロディ、こういったメリットが当然ながらラモー派の熱狂をかき立てていたのである。彼らは老カンプラ [注釈 6]を中心にグループを形成していた[10]。 イギリス初演は1965年5月13日にバーミンガムで、アンソニー・ルイスの指揮、ジャネット・ベイカー、ロバート・ティアー、ジョン・シャーリー=カークらによって行われた。アメリカ初演は1966年4月6日にボストンで行われた[11]。 日本初演は2003年11月7日に北とぴあさくらホールにて、コンサート形式で、指揮:寺神戸亮、イポリート:ジャン=フランソワ・ノヴェリ、アリシー:ガエル・メシャリー、テゼ:ステファン・マクラウド、フェードル:波多野睦美、管弦楽と合唱:レ・ボレアードによって行われた[12][13]。 『ラルース世界音楽事典』は「本作はラモーの現存するオペラの中で最初の作品である。ラモーはここでは、一般的な構成とリュリ派のオペラ形式を保持している。例えば、寓意的なプロローグ、幕ごとのディヴェルティスマン、豊富な合唱と器楽曲、柔軟な形式による声楽曲、などである。第2幕に見られる筋から外れた挿話や、装飾的な性格を持つ数々の場面が劇的な連続性を阻んでいるが、複雑な音楽書法の質は高く、作品の初めから終わりまで極めて独創的な調子が保たれている。運命の女神たちの3重唱(第2幕5場)および第4幕の狩りの女神たちの合唱は、この時代ではバッハとヘンデルのみが匹敵しうるほどの和声的豊かさと音響的豪華さを備えている。さらに、第4幕のディヴェルティスマンには対比的効果が見られ、続いておこる波乱――怪物の出現、イポリートの死の想定、フェードルの絶望、そして、合唱による胸を打つ締めくくり――の激しさをいやが上にも高めている。各幕の最後の部分は、すべて抒情悲劇に可能な限りの自由な書法で処理され、独唱群とアンサンブルがひとつの音楽的流れとなるよう繋ぎ合わされている。独唱による声楽書法の基礎となるレシタティフは、台詞回しや旋律的音程や和声運びにおいて尽きることのない変化を見せる。テゼ役にはアリオーソが与えられているが[注釈 7]、調性的統一と管弦楽の豊かさでアリアと変わらない。アリアは色々な形式と規模によっている。―中略―ロンド形式やダ・カーポ形式の瞑想的なアリアでは、特にオーケストラ伴奏の密度の濃さが特筆される」と分析している[14]。 『オックスフォードオペラ大事典』では「本作でラモーはたちまちのうちにフランス・オペラ界に新たな型を確立した。それは、リュリの死後、様式上の冬眠状態に陥っていたフランス・オペラを目覚めさせる役割を果たした。最初から彼は、一致して本作を非難した批評家やアカデミーの会員たちから論争好きの人物と見なされたが、幸い聴衆からは強く称賛された。聴衆は本作の中にフランス音楽の進むべき道を見たのである。本作はリュリの原型が出発点になってはいるものの、ラモーは感情に対するより、偉大な感受性によって、腕のいい脚本家の協力を仰いだ物語の筋をさらに豊かに鮮明に演出することができた。リュリの《栄光》の強調および豪華な光景に、強められた劇的認識が取って代わり、古典的神話より人を惹きつける筋に変えられた。そこでは人間の感情が一役買っている。それゆえ、アリシーは、ラシーヌの『フェードル』では小さな役しか担っていないが、オペラでは話の筋には十分に参加している。一方、戯曲ではほとんど触れられていないイポリートの色好みの側面が十分に探求されているために、イポリートの英雄的行為を強調することは減じられている。フェードルの人物描写も同様に悲劇のヒロインから、つれなくされた女のカリカチュアのようなものに変えられている。
概要
作曲の経緯
初演とその後
作品と音楽ラモー