イブン・ハイサム
[Wikipedia|▼Menu]
イブン・ハイサムのイメージ像

イブン・ハイサム(??? ??????, Ibn al-Haytham もしくは Ibn al-Haitham, イブン・アル=ハイサム, ラテン名: アルハゼン)は、イスラム圏の数学者天文学者物理学者医学者哲学者音楽学者[1]965年 - 1040年)。

イブン・ハイサムは光学の諸原理の発見と科学実験手法の発展に対し、近代科学へ重要な貢献をした人物である。また彼が残した光学に関する書物、レンズを使った屈折反射の実験などから「光学の父」ともみなされている。「アルハゼンの定理」や月のクレーター「アルハゼン(英語版)」は彼にちなむ。
名前

フルネームはアブー・アリー・アル=ハサン・イブン・アル=ハサン・イブン・アル=ハイサム(Ab? ‘Al? al-?asan ibn al-?asan ibn al-Haytham, ??? ??? ????? ?? ????? ?? ??????)で、直訳は「アリーの父こと、アル=ハイサムの息子(≒アル=ハイサム家の者)であるアル=ハサンの息子たるアル=ハサン」。

日本語では「イブン・アル=ハイサム」または定冠詞アル=を省いた「イブン・ハイサム」表記が多く見られる。

西洋ではファーストネームであるアル=ハサンのラテン語風発音であるアルハゼン、アルハーゼン(Alhacen 、Alhazen)の名で知られていた。ただし本名に関しては異説があり、アル=ハサンではなくムハンマドとも言われている[2]

イラクの都市バスラ出身であったことから「アル=バスリー」(al-Ba?r?, ??????, 「バスラ出身の(人)」の意)とも呼ばれていた。

なお「イブン・アル=ハイサム」は学者本人のファーストネームやその父の名前だと言われている「アル=ハサン」ではなくアラブ世界で多用される出自表示方法で、名字に相当する部分を「イブン・アル=ハイサム」という形式で表現しているもの。「アル=ハイサムの息子」という直訳になるがここではイブンは実父以外の先祖の名前が入る事例であり、アル=ハイサムは実父ではなく数代前の祖先の名前[2]で、「アル=ハイサム家(出身者)」といった意味で使われる家名・名字相当部分となっている。
生涯1572年にラテン語に翻訳されたイブン・ハイサム(アルハゼン)の書 Thesaurus opticus (光学の書)の表紙。太陽光を集めてシラクサ沖の軍艦を燃やすアルキメデスの装置が描かれている

イブン・ハイサムは光学理論の研究、および科学研究の実践や手法に関して重大な貢献をした、史上最も偉大な科学者の一人である。

イブン・ハイサムの伝記には不明な部分が多い[3]。彼はアッバース朝時代の965年にバスラで生まれた。父親は官吏を務めており、息子に地元バスラにて十分な教育を受けさせた[4]という。

彼はバグダードで学業を修了しバスラでカーディー(裁判官)となったが、当時吹き荒れていた宗教対立・抗争の嵐の中で職を辞し学者の道へと転向。資料によっては父方おじから医学を学び[5]医師兼官吏として宮廷で仕官していた[6]ともされている。

イラクもしくはシャーム(現在のシリア近辺)にいた頃にナイル川止水堰構想を伝え聞いたファーティマ朝カリフのハーキムによりエジプトカイロへ招聘され移住。同地でそのまま暮らし1040年に死去、埋葬されたものと見られる。
ファーティマ朝カリフによるエジプト招聘

後世の伝記によれば、学芸を保護する一方冷酷な奇人としても知られたエジプトのファーティマ朝の第6代カリフハーキムによってカイロに招かれた。イブン・ハイサムが毎年氾濫を起こすナイル川治水実現に結びつく科学的見解ーアスワンに堰を作ればナイル川の流量を調節し、氾濫期か渇水期かにかかわらず水を供給できるようになるーを明らかにしたと伝え聞いたハーキムの強い希望によるものだった[7]という。

ハーキムはカイロ郊外の(アル=)ハンダクと呼ばれた地でイブン・ハイサムを迎え、彼のために用意した住居まで同行。生活や警護などの援助を提供[8]し、公的な地位も与えた[9]

カリフの意向を聞いたイブン・ハイサムは技術者らとナイル川を遡上しながら見て回ることにしたが、現地調査の結果自身が立てた治水構想を実現に移すことは不可能であると判断。古代エジプトに建設された数々の遺跡とその技術力、滝があるアスワン付近の難しい地形、祖国を流れるティグリス川・ユーフラテス川とは異なる荒々しいナイル川の実際の流れを目にして、自分がエジプトの地を踏まないまま机上で生み出した推論と当時の技術力ではナイル川を治めるには足りなかったと悟ったからだとも伝えられ[7]ている。

治水事業を約束した形で出立したもののそれが無理だったと悟ったイブン・ハイサムは、アスワンから戻った後にハーキムに謝罪[10]。ハーキムは自身の理論に不備があったことを正直に認めた[11]イブン・ハイサムをその場で処刑したり国外追放したりすることはせず、謝罪を受け入れ実現が不可能である理由にも納得したように見受けられ、それなりの公職を改めて与えた。これについてはイブン・ハイサムが他国の為政者によってその才能を活用されることを防ぎ手元に置いておく目論見もあったのではないかと論じる説、シーア派であるファーティマ朝支配下にあるカイロが過ごしやすかったためイブン・ハイサム自身がそのまま逗留することを選んだのではないかといった見方もあるという[10]

ハーキムの真意は了解とは程遠いのではないかと考えたイブン・ハイサムはカリフの気まぐれと翻意によって殺害されることを恐れ[12]、自らが置かれた不安定な状況と慣れない官吏職から唯一逃れられる方法としてイスラーム法上責任を問われず死刑から免れることのできる狂人になったかのようにふるまうことを選択した。

狂気を装ったものの結局は公職を剥奪。財産や書籍などの所持品も没収[13]され、ハーキムが1021年に謎の死を遂げるまで自宅軟禁生活を送った[4]。ハーキムによって監視の使用人をつけられていたことから狂人になったふりはハーキムが死去するまでの約10年間にわたって続けざるを得ず、カリフ死去後にようやく正気に戻ったふりができるようになり学究生活を公然と行うようになった。

軟禁されていた自宅からアズハルモスクのそばに転居。アズハル学院で講義を行い複数の学者らが彼の元で巣立っていった。また生活が楽でなかったことからエウクレイデスやプトレマイオス(著『アルマゲスト』)といった書籍の写本・翻訳などを行うなどして生計を立て[14]ながら研究に没頭したという。

外出禁止期間中に研究のための十分な時間を得て、光学、数学、物理学、薬学、および学問の分類や研究手法に関する多くの書物を著すに至った。『光学の書』もその中の一つであった。
著作・成果

後世に作成された彼の著作のリストをつきあせると、200弱のタイトルを数えることができ、そのうち60程度がアラビア語の写本又は断片で現存している。その中で『??????? ????????????』(転写:Kit?b al-Man??ir, キターブ・アル=マナーズィル, 実際の発音:kit?bu-l-man??ir, キターブ・ル=マナーズィル, 邦題:光学の書、1015年 - 1021年)は特に重要な著書であり、12世紀 の末から13世紀の中頃までの間に恐らくはスペインでラテン語に翻訳され、ヘブライ語、およびイタリア語に訳された。『光学の書』を併せて計3つの著作がラテン語訳された[15]

プトレマイオスの『光学』『アルマゲスト』など、古代ギリシア古代ローマの光学・天文学・数学を批判的に継承し、画期的な成果を上げた。
彼の名前を冠した施設など

彼の肖像は2003年、イラクの10,000ディナール紙幣に登場したほか、テヘランに本部を置くイラン原子力庁(英語版)にあるイラン最大のレーザー研究施設にも彼の名が冠されている。月のクレーター「アルハゼン(英語版)」のほか、小惑星59239「アルハゼン」も彼を記念して名づけられた。
業績

古代ギリシア的な自然に対するアプローチには、自然学によるものと数学的な諸学によるものがあった。後者は狭義の数学(幾何学、算術、代数)の他に天文学、光学(視学)、和声学、静力学(釣り合いの学)などを含んでいた。

イブン・ハイサムは後者の専門家で、狭義の数学のほか、光学(視学)、天文学、静力学(釣り合いの学)において大きな業績があった。特に、光学における業績で名高い。

自然学と数学的な諸学のアプローチは、対象は同じでも基本的には別のものとされた。例えば「天文学は天体の運行の幾何学的な側面に関する理論であって、その原因や本性については語らない」などとされた。イブン・ハイサムは高度な数学を駆使する一方、自然学的な問題意識も重視した。
光学

イブン・ハイサムは、古代以来バラバラに行われてきた光や視覚に関する研究を綜合し、深め、後世の光学の研究に決定的な影響を与えた[注 1]。特に視覚が光によって引き起こされることを明らかにし、新たな解析手法(点解析[注 2]を開発したことは大きな貢献であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:71 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef