イブン・タイミーヤ
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イブン・タイミーヤ(アラビア語 ??? ????? ??? ?????? ???? ?? ??? ?????? ?? ??? ?????? ?? ??? ???? ??? ?????? Taq? al-D?n Ab? al-‘Abb?s Ahmad b. Abd al-Hal?m b. ‘Abd al-Isl?m b. ‘Abd All?h Ibn Taym?ya、1258年[1]/63年[2][3] ? 1328年)は、中世シリアハンバル派イスラム法学者、哲学者。
生涯

シリア北部のハッラーンで生まれる[4]。ハンバル派の法学者の一族の一員として生まれ、幼少期から学問に励んだ[5]モンゴル軍がハッラーンに侵攻する噂が広まるとイブン・タイミーヤの一族は町を離れ、1267年ダマスカスに移住する[6]

父アブド・アル=ハリームを師としてイスラーム法学(シャリーア)、ハディース学を修めたイブン・タイミーヤは若くして頭角をあらわし、17歳にしてファトワーを出すことができるようになった[6]1284年に父が没すると、タイミーヤは跡を継いでダマスカスのスッカリーヤ・マドラサで教鞭を執った[4]。翌1285年には、ウマイヤ・モスクでクルアーン解釈を講義し始めた[4]。ヒジュラ暦691年の大巡礼に参加し、翌年にダマスカスへ戻った(西暦1292年から1293年)[4]。このときに目撃した、巡礼にまつわる儀式の数々に違和感を感じたイブン・タイミーヤは、のちにこれらを「ビドア」(逸脱)として論じる論文にまとめた[4]

若くして地位を得たイブン・タイミーヤは周囲から嫉妬されることが多く、彼自身の攻撃的な性格とも相まって、多くの学者と対立した[7]。1293年にイブン・タイミーヤは、預言者ムハンマドを侮辱したとされたスワイダーのキリスト教徒、アッサーフ・ナスラーニーなる人物を弾劾するファトワーを出すよう求められた[8]。イブン・タイミーヤは権力者の意向に反して死刑にこだわり、その強情さゆえに牢に入れられた[4][8]1299年にあるハナフィー派の学者から、イブン・タイミーヤの神の議論は擬人神観にあたると訴えられたが、逆にイブン・タイミーヤは相手を論破し、世間に学識と信念の強さを知らしめる[7]

1299年にマムルーク朝の軍隊を破ったモンゴル系国家イルハン朝(フレグ・ウルス)の軍がダマスカスに迫ると、イブン・タイミーヤは使節団を組織して遠征軍の総司令官であるガザン・ハンとの交渉に向かった。同行した人間の不安をよそに、交渉の場でもイブン・タイミーヤは辛辣な物言いをしたと伝えられている[7]。モンゴル軍がダマスカスを占領した後、イブン・タイミーヤは捕虜の解放にあたる。

モンゴル軍がダマスカスから退却した後、イブン・タイミーヤはモンゴル軍がシリアに侵入するたびにダマスカスのモスクの説教壇に立ち、兵士と民衆を鼓舞した。1302年ラマダーン月にシリアにモンゴル軍が侵入した時にはイブン・タイミーヤも剣を手に取って戦い、「断食をするよりも食事を摂ってモンゴルと戦う方がより神意にかなっている」旨のファトワーを出した[9]

モンゴルの攻撃が沈静化した後、イブン・タイミーヤは神秘主義者(スーフィー)に論戦を挑み、1305年ごろには信仰の対象となっていた聖石を叩き割った[9]。神と人間の関係を論じて、イブン・タイミーヤがスーフィーの存在同一説を攻撃すると、スーフィーたちはイブン・タイミーヤを神人同型論者として批判した[9]。論争相手のスーフィーの中には権力者とつながりのある者もおり、そのために1305年カイロで投獄される[9]1307年に一時的に釈放されたが、再度投獄される。1309年にイブン・タイミーヤはマムルーク朝のスルターンに復位したナースィル・ムハンマドによって釈放され、顧問官として迎えられたイブン・タイミーヤはカイロで落ち着いた生活を送った[10]

やがてイブン・タイミーヤの関心はシャリーアに向かい、様々な問題に対して独自の見解によるファトワーを発した[10]1318年、同じハンバル派の大法官から派の公式見解と異なるファトワーを出すことを控えるよう要請される[10]


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