イブン・アル=ハティーブ
[Wikipedia|▼Menu]


イブン・アル=ハティーブ(
アラビア語: ???? ????? ?? ??????‎、Ibn al-Khatib、全名:Muhammad ibn Abd Allah ibn Said ibn Ali ibn Ahmad al-Salmani、1313年11月 - 1375年[1])は、イベリア半島のイスラム国家ナスル朝政治家歴史家詩人 Ibn al-Khatib memorial
出自

南アラビアのイエメンアラブ族を祖とし、一族の祖先は8世紀にイベリア半島に移住した[2]
生涯

グラナダ近郊の都市ロハで生まれ、グラナダで学問を修めた。

1340年に父が戦死した後ユースフ1世に書記官に任命され、1349年に宰相(ワズィール)イブン・ジャイヤーブがペストで病死すると後任の宰相に任ぜられた[2]。ムハンマド5世の治世でも引き続き宰相職を務めるが、1359年8月に起きたクーデターによってムハンマド5世が廃位されると、国政の中心にあったアル=ハティーブも反乱者によって投獄される。マリーン朝スルタン・アブー・サーリムの仲介によって解放された後[3]、ムハンマド5世と共にモロッコフェズに亡命した。亡命中に歴史家イブン・ハルドゥーンと交流を持ち、復職後に彼のグラナダ移住を取り計らった。

ムハンマド5世が復位すると彼も復職し、フェズの宮廷で孤立したハルドゥーンがグラナダに移住した際にはムハンマド5世と共に彼を歓迎した。しかし、ハルドゥーンを快く思わない廷臣の讒言、ムハンマド5世の教育方針の不一致によってハルドゥーンとの仲は遠いものになり、彼はハルドゥーンが自発的に宮廷を離れるように仕向けた。ハルドゥーンがビジャーヤハフス朝の王子の元に去ると、イブン・アル=ハティーブは改めて友好関係を築こうと努めてハルドゥーンに数度手紙を送るが、両者の関係は完全に修復されなかった[4]

ハルドゥーンが去った後、イブン・アル=ハティーブはムハンマド5世の信任を一身に集めるようになると、他の廷臣は彼を陥れようと陰謀を巡らせる。宮廷内の陰謀に気が付いたイブン・アル=ハティーブはマリーン朝のスルタン・アブド・アル=アズィーズ1世を頼って1371年から1372年の間にトレムセンに亡命するが、廷臣たちは彼を裏切り者と非難し、ムハンマド5世も彼への疑念をつのらせるようになった。マリーン朝ヘイブン・アル=ハティーブの引き渡しを要求する使者が派遣され、アブド・アル=アズィーズは彼の引き渡しを拒んだが、政変によってムハンマド5世と密約を交わしたアブー・アル=アッバース・アフマドが即位すると、彼はグラナダに召喚された。グラナダで宗教裁判にかけられ、判決が出る前に獄中で斬殺された[5]

歴史、地理、詩、医学の分野において60余りの著作を残し[2]、代表作に『グラナダ史』がある。また、行政の実務においても公文書の書式に改良を加える実績を挙げた[6]
脚注^ 私市「イブン・アルハティーブ」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録
^ a b c 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、105頁
^ 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、96頁
^ 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、108頁
^ 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、110頁
^ 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、106頁

参考文献

私市正年「イブン・アルハティーブ」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 2001年10月)

森本公誠『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫, 講談社, 2011年6月)

典拠管理

WorldCat Identities

BNE: ⇒XX975580

BNF: ⇒cb12020465j(データ)

GND: 119244632

ISNI: ⇒0000 0001 2143 1545

LCCN: ⇒n82037645

MusicBrainz: 6d93b76a-5b9c-4d78-8001-e91aa7fb6b70

SELIBR: 191225

SUDOC: 028351320

VIAF: 90044281



更新日時:2018年5月24日(木)10:01
取得日時:2019/01/22 23:30


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:9662 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef