イブン・アラビー
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イブン・アラビー

イブン・アラビー(アラビア語: ??? ?????‎ Ibn al-?Arab?, アラビア語: ??? ????? ??? ??? ???? ???? ?? ??? ?? ???? ?? ?????? ??????? ??????‎ Mu?? al-D?n Ab? ?Abd All?h Mu?ammad ibn ?Al? ibn Mu?ammad ibn al-?Arab? al-??tim? a?-???? 生没年 1165年7月28日 - 1240年11月10日[1])は、中世イスラーム思想家。存在一性論・完全人間論を唱えてイスラーム神秘主義スーフィズム)の確立に寄与し、後世に影響を与えた。
生涯

イスラーム教徒セビリア王国の支配下にあったアンダルシアムルシアアラブ系の名門に生まれる。12世紀後半はセビリアの統治者であったムワッヒド朝アブー・ヤアクーブ・ユースフ1世(在位:1163年 - 1184年)の治世であり、ユースフ1世は文化を重んじていたため宮廷にはイブン・ルシュド(アヴェロエス)やイブン・トゥファイルなどが集い、セビリアは当時を代表する文化都市のひとつであった。

父アリーはイブン・ルシュドと親しく、後年主著のひとつ『マッカ啓示』での記述によるとイブン・アラビーがイブン・ルシュドと面会したのは15?16歳の時であったといい、老齢であったイブン・ルシュドはイブン・アラビーの洞察力に驚いたという。その後もイブン・ルシュドらとの交流は続き、1194年にイブン・ルシュドがコルドバで亡くなったときイブン・アラビーは30歳で、その葬儀に参列している。青年期にセビリア法学神学・ハディース学を学ぶ。その頃、病床にあった彼は幻視体験からスーフィズム(ta?awwuf タサウウフ、タサッウフ)を学ぶようになった。以後の10年程をアンダルシア・マグリブ各地を遍歴して、スーフィー行者とともに修行した。この時期にイブン・アラビーが教えを受けたスーフィーの師匠として、アブー・ジャアファル・ウライニー(Ab? Ja?far al-?Urayn?)、アブー・ヤアクーブ・カイスィー(Ab? Ya?q?b al-Qays?)、サーリフ・アダウィー(??li? al-?Adaw?)、アブー・ハッジャージュ・ユースフ(Ab? al-?ajj?j Y?suf)などがおり、ファーティマ・ビント・ムサンナー(F??ima bint al-Muthann?)、シャムス・ウンム・フカラー(Shams Umm al-Fuqar?')といった女性スーフィー行者からも師として学んだことが知られている。

イブン・アラビーはその人生の大部分を旅に費やしている[1]ヒジュラ暦597年(1200年 - 1201年)にイブン・アラビーは夢告を受けてマッカ(メッカ)への巡礼を志して東方に旅立った。1202年カイロエルサレムを経てマッカ巡礼を果たした彼はそのまま同地に2年間滞在して、更なる研究に没頭する[1]1204年、彼はマッカにおける研究の集大成である『マッカ啓示』( ???????? ?????? al-Fut???t al-Makkiyya)を著した。

1204年アナトリアを出てコンヤマラティヤの巡礼団を率いてきたマジュドゥッディーン・イスハーク(Shaykh Majd al-D?n Is??q ibn Y?suf)と出会い、イブン・アラビーの教説に感銘したイスハークの誘いを受けて、1205年にコンヤへの復路に同行することとなった。その後も帰還の巡礼団とともにバグダードモースルを経てイスハークの勧めもあってマラティヤに移住した。この時期にルーム・セルジューク朝カイホスロー1世がコンヤで復位(在位:1205年 - 1210年)し、イスハークがカイホスローの宮廷に招かれた際にイブン・アラビーも同時に伺候して謁見し、下賜品を授かった。このマジュドゥッディーン・イスハークの息子が、後にイブン・アラビーの直弟子のひとりとしてイブン・アラビーの教説の流布に奔走したサドルッディーン・クーナウィー(?adr al-D?n al-Qunaw? )である。翌年にもイブン・アラビーは近隣への旅を続け、エルサレム・カイロ・マッカなどを訪問し、1210年にはコンヤに再び戻った。1212年にバグダードに赴いているが、これはカイホスロー1世の後を継いだカイカーウース1世(在位 1211年 - 1220年)の即位の報告をカリフ宮廷に報告するため同地を訪れていたイスハークと同道したものと考えられる。イブン・アラビーはカイカーウース1世のために実践的なアドバイスを書簡に残している。この時期イブン・アラビーはアレッポスィヴァスを訪ねているが、主にマラティヤで生活をしている。また1221年には息子サアドゥッディーン・ムハンマド(Sa?d al-D?n Mu?ammad 1221年 - 1258年)を儲けた。

晩年は支援者であった富豪の招きでダマスクスに居を定めた。遅くとも1230年には同地にいることが知られているが、ここでは彼の言説への反対者からの厳しい批判を浴びたものの、同時に多くの擁護者にも恵まれた。彼はそこで夢告によりアダムから預言者ムハンマドに至る27名の預言者の伝記・思想論集である『叡智の台座』( ???? ????? Fu??? al-?ikam)を著した。彼自身の言によると、夢の中に預言者ムハンマドが現れて手渡された書物の名が『叡智の台座』であったという。また、彼は詩人及びザーヒル派(en:??hir?)ウラマーとしても知られて著作を残しており、その数は生涯で200を越える。彼の没後、郊外のカシオン山中腹に墓廟が築かれ、一部のイスラム教徒からは巡礼の対象地とされ、墓廟周辺は彼の名前にちなんだ「ムフイッディーン地区」という地区名で呼ばれているほどである[2]
思想と批判
「存在一性論」と「完全人間説」

彼はイスラーム神秘主義におけるもっとも重要かつ高度な思想家であった。イブン・アラビーの思想の特徴をまとめると、「存在一性論」(wa?da al-wuj?d)という存在論と、「完全人間」(ins?n k?mil)という人間論にそれぞれ代表させる事が出来る。この世界はすべて一者の自己顕現(tajall?)として理解される。すなわち、この世界には自存している「無限定存在」(wuj?d mu?laq)である神アッラーフと、それそのものでは非存在であるがアッラーフに依拠する事で初めて存在し得る「被限定存在」(wuj?d muqayyd)である被造物に大きく分けられる。イブン・アラビーはこれに加え、それらのいずれとも異なる第三要素として「真実在の真実性(?aq?qa al-?aq?'iq)」を想定する[3]。万物は見かけ上は全く違うように見えるが、実は全て神の知恵の中にある1形態に過ぎず、本質的には同一の物体であるとするのが「存在一性論」(Wa?da al-wuj?d)である。(ただし、「存在一性論」という用語自体はイブン・アラビー自身は使用しておらず、最初に「存在一性論」という用語を使用し始めた人物が誰であるか諸説ある。近年、その候補者としてイブン・アラビーの批判者であったイブン・タイミーヤが最初のひとりであるとする研究が出されている。)[4]

また、人間とは神が持つ全ての属性の集合体によって構成されており、その中でもそれを自覚した「完全人間」(ins?n k?mil)と呼ぶべき人が預言者であり、ムハンマドはその最後の人物であるとする「完全人間」(ins?n k?mil)によって構成されており、人間は元から神の一部である以上、心や意識に苦痛をもたらす禁欲的な探求を採ることは無意味であると唱えたのである。

宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wuj?d)と呼ぶ。これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawj?d)とは全く異なる原理存在であるとする。そしてその存在の究極位をプロティノスの「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、それが全存在世界の太源であると考えた[5]。イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである[6]。「存在」(wuj?d)には、「自己顕現」(tajall?)に向かう志向性が本源的に備わっており、「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する[6]

彼の思想は弟子のサドルッディーン・クーナウィー(?adr al-D?n al-Qunaw?)らによって体系化され、全てのイスラーム教徒(及び一部のキリスト教思想家)に影響を与える一方で、イブン・タイミーヤに代表される反対論を唱える思想家を生み出し、イスラーム教の思想・歴史に大きな影響を与えることになる。
イブン・アラビー思想と「存在一性論学派」の展開

直弟子であったクーナウィー(1207年 - 1274年)は、思索の赴くままに叙述したイブン・アラビーの作品を整理し、それらに自ら注釈を施す等して体系化に勤めた。クーナウィーは『叡智の台座』の注釈を施した他に、同じく同書の注釈を著したジャンディー(Mu'ayyid al-D?n al-Jand? ? -1291年頃?)や、イブン・アラビーの思想を哲学的さらに深化させたティリムサーニー(‘Af?f al-D?n al-Tilims?n? 1291年)、ペルシア語神秘主義詩人として有名なイラーキー(Fakhr al-D?n Ibrah?m ‘Ir?q? )ら後進達の育成も行っている。


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