イパネマの娘
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この項目では、楽曲について説明しています。その他の用法については「イパネマの娘 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「イパネマの娘」
スタン・ゲッツジョアン・ジルベルト楽曲
収録アルバム『ゲッツ/ジルベルト
リリース1964年3月[1]
規格レコード
録音ニューヨーク、A&Rレコーディング・スタジオ(1963年3月18日 - 3月19日[2]
ジャンルボサノヴァ
時間5分21秒(アルバム)
レーベルヴァーヴ・レコード
作詞者原詞:ヴィニシウス・ヂ・モライス
英詞:ノーマン・ギンベル(英語版)
作曲者アントニオ・カルロス・ジョビン
プロデュースクリード・テイラー

ゲッツ/ジルベルト』 収録曲

Side 1

「イパネマの娘」

「ドラリセ」

「プラ・マシュカー・メウ・コラソン」

デサフィナード

Side 2

「コルコヴァード」

「ソ・ダンソ・サンバ」

「オ・グランジ・アモール」

「ヴィヴォ・ソニャンド」

ミュージックビデオ
「The Girl from Ipanema」(album version) - YouTube

「イパネマの娘」
スタン・ゲッツジョアン・ジルベルトシングル
初出アルバム『ゲッツ/ジルベルト
B面風に吹かれて
リリース1964年5月[3]
規格7インチ・シングル
録音ニューヨーク、A&Rレコーディング・スタジオ(1963年3月18日 - 3月19日[2]
ジャンルボサノヴァ
時間2分44秒(シングル)[4]
レーベルヴァーヴ・レコード
作詞・作曲ヴィニシウス・ヂ・モライス、ノーマン・ギンベル、アントニオ・カルロス・ジョビン
プロデュースクリード・テイラー
チャート最高順位


第5位(Billboard Hot 100

第1位(Billboard Easy Listening)

第29位(全英シングルチャート

ミュージックビデオ
「The Girl from Ipanema」(single version) - YouTube


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「イパネマの娘」(イパネマのむすめ、ポルトガル語: Garota de Ipanema、英語: The Girl from Ipanema)は、ブラジルアントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)が1962年に作曲したボサ・ノヴァの歌曲である。
概要

ポルトガル語の原詞はヴィニシウス・ヂ・モライスが、英語詞はノーマン・ギンベル(英語版)がそれぞれ作詞した。

ビートルズの「イエスタデイ」などに次いで、世界中で多くカヴァーされたポピュラー・ソングの一つといわれ、ボサ・ノヴァのナンバーとしてはもっとも著名な曲となっている[注 1]

なお、「イパネマ」とはブラジルのリオデジャネイロ市内に位置するコパカバーナ海岸隣りのイパネマ海岸ことである。
作曲・発表

ミュージシャンで作曲家であるジョビンと、ブラジル政府の外交官でジャーナリストでもある詩人のモライスは、1957年以来コンビを組んで作詞・作曲を行い、ボサ・ノヴァのムーブメントを牽引してきた。

ただ、ジョビンの才能を惜しんでその存在を独占したがったモライスと、活動の幅を広げたがったジョビンとの思惑は徐々にすれ違うようになり、この「イパネマの娘」を最後にコンビは解消されている。もっとも2人の友情自体はモライスが死去するまで続いた。
エロイーザ『イパネマの娘』ことエロイーザ・ピニェイロ(2006年

この曲が作られる過程で伝説的に語られている、以下のエピソードがある。

当時、ジョビン、モライスなどのボサ・ノヴァ・アーティストたちは、リオデジャネイロのイパネマ海岸近くにあったバー「ヴェローゾ(ポルトガル語: Veloso)」にたむろして酒を飲むことが多かった。

このバーに、近所に住む少女エロイーザ(英語版)[注 2]が、母親のタバコを買いにしばしば訪れていた。彼女は当時10代後半、170cmの長身でスタイルが良く、近所でも有名な美少女であった。

ジョビンもモライスも揃って非常なプレイボーイであり、殊にモライスはその生涯に9度結婚したほどの好色家であった。女好きの彼らはエロイーザの歩く姿に目を付け、そこからインスピレーションを得て、「イパネマの娘」を作ることになった[注 3]

この際、ジョビンとモライスが、ヴェローゾの店内で即席に曲を作ったという説が広く流布しているが、実際の作詞・作曲自体はそれぞれの自宅である程度の期間をかけて行われたもので、伝説とはやや異なる。

作曲のきっかけの場となったバー「ヴェローゾ」は、のちにこの曲にちなみ「ガロータ・ヂ・イパネマ」と改称され、2007年現在でも営業が続いている。

また、エロイーザ自身も2001年に「ガロータ・ヂ・イパネマ」という名のブティックを開き、この曲の楽譜と歌詞を印刷したTシャツを販売した。これに対してジョビンとモライスの著作権継承者たちが訴訟を起こしたが、裁判所はエロイーザに有利な判決を下し、エロイーザはサンパウロリオデジャネイロにこのブティックの支店を展開した。

ちなみにエロイーザは2023年7月7日で80歳になったという[5]
歌詞

モライスによるオリジナルのポルトガル語歌詞は、海岸を歩き去る少女への届かぬ想いを物悲しく訴える歌詞である。モライスの叙情性がよく表れた歌詞で、彼の代表作の一つである。

ノーマン・ギンベルの英語詞も、モライスの原詞を意味の上では追っているものの、格調はやや劣るきらいがある。
発表

1962年8月2日から45日間にわたり、リオデジャネイロ・コパカバーナナイトクラブ「オ・ボン・グルメ」において連続ステージショー「エンコントロ」が開催された。ジョビン、ジョアン・ジルベルト、そして(歌の素人である)モライスという「ボサ・ノヴァの創始者」3人が共演するという夢の顔合わせである。「エンコントロ」(出会い)というタイトルもこれにちなむものであった。彼ら3人が共演したのはこのショーの時だけである。

『イパネマの娘』が発表されたのはこのショーでのことで、男性コーラスグループのオス・カリオカス(英語版)のサポートのもと3人が歌った新曲は大評判となった。気をよくしたモライスは、以来本格的に歌手稼業へ進出した[注 4]

この際、モライスらしいとぼけたエピソードがある。外務省から「外交官のクラブ出演はけしからん」ととがめられたモライスは「自分は報酬は貰わない」として出演し、代わりに客として訪れる友人たちの飲食代をただにするようクラブの支配人に要請した。ところが毎晩のショーを見に来る友人たちはみな大酒飲みの大食家で、モライス自身も酒を勧められては始終酔い続けていたため、あまりにも飲み代がかさんで足を出し、ショー終了後に出演者のモライスが金を払う羽目になった。


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