イネ_(ウェセックス王)
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イネ
Ine
ウェセックス王
ウェルズ大聖堂のステンドグラス窓に描かれたイネ王
在位688年 - 726年

配偶者エセルブルフ
家名ウェセックス家
父親チェンレッド
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イネ(Ine, 古英語:INE CENREDING VVESTSEAXNA CYNING, : INE REX SAXONVM OCCIDENTALIVM)とは、西サクソン人の王で、後世にウェセックスの王として列せられた人物(在位:688年 - 726年)。

イネの時代は前王キャドワラの時代と異なり、南方に領土を大幅に拡張した前王が残した領土を維持する事が叶わず、それまで支配下に置いていたケントサセックスエセックスの領土を失った。しかしながらイネは、現在で言うハンプシャー地方の支配下を維持、前王キャドワラが東に向かっていたのに対し、領土拡張を西方の半島部に求め、これを併合し支配下にした。

むしろイネの業績は694年に記した成文法で知られている。この法はケント王国を除くアングロサクソン社会で公布された最初の成文法として知られ、現在において当時のアングロサクソン社会を知る手がかりとなっており、イネが洗礼を受けていた事もここに明らかになっている。また交易もイネの時代には大幅に増え、この時代ハムウィッチ(Hamwic - 現サウザンプトン)が重要な都市となった。現時点ではイネの名前のものは発見されてはいないが、恐らくはこの時代にウェセックスで初めて貨幣の造幣が始められたと考えられている。

イネは726年に退位、自らの王国を「若い者たち」に託してローマへと赴いたと伝記学者ベーダ・ヴェネラビリスの残した言葉に記されている。
出自

それ以前のものとなると文献によっては若干の差異が見られるものの、イネはチェンレッドの息子であり、その父チェンレッドはチェオルワルドの息子という事では当時の文献は一致している[1]。イネの兄弟はインジルドと姉妹クスブルガとクウェンブルホ(ノーサンブリア王アルドフリスの妻)が2人おり[2]、イネ本人はウェセックスの王女エセルブルフを妻とした[1]ベーダ・ヴェネラビリスによればイネは「高貴な血統」、すなわちゲウィセと呼ばれる西サクソン発祥の部族の血統の出自とされている[3]

イネに関する系譜の資料は2つ、『アングロサクソン年代記』と『西サクソン王族系譜目録』がある。アングロサクソン年代記は9世紀後半、恐らくはアルフレッド大王の頃に編纂され、この一部に西サクソンの王の系譜が含まれている。しかしながら年代記の記載はしばしば系譜目録と矛盾している[4]

イネの前にウェセックスを統治していたのはキャドワラであったが、キリスト教に帰依し、688年洗礼のためにローマへと発ったこの王からどのような経緯を至ってイネに王位が譲られたかに関してはいささか不明瞭な点がある。西サクソン王族系譜目録によると、イネの統治は37年、退位は726年とされる。これから689年の時点では彼の王座に上っていない事になる。この事からキャドワラの退位からイネの登位までには不安定な時期があった可能性が挙げられる。イネが一時父チェンレッドのもとで統治していた可能性もあるが、このような共同王位の証拠は乏しく、むしろこの時期より遠くない頃から単独のウェセックスの統治者の副王として統治していた証拠の方が強い[5]。法令にはイネが父の助力を受けていた事が書かれており、記録にある下賜された土地からイネが王位に就いてからも父チェンレッドが統治していた事が判明している[6][7]
統治7世紀後半ヘプターキー時代のイングランド

イネの統治初期に起こした西サクソン領の拡大はよく知られている。テムズ渓谷上流地域はゲウィセ古来からの土地であったが、キャドワラの治世には川の以北地域はマーシアに奪われていた。西部に目を向けると、古くは100年前のチェウリンの時代にはブリストル海峡にまで勢力を延ばしていた事が分かっている[8]。以来西サクソンはブリトン人の勢力、ドゥムノニア(現在のおおよそデヴォンコーンウォールに相当する地域)との境界に圧力をかけ、南西の半島部に勢力を伸ばしていた[9]。東には東サクソン人の勢力があり、現在のロンドンサリー地方を支配していた。南東はワイト島の東岸を境として南サクソン人の支配地があり、その向こうにはケント王国が控えていた[10]。イネの前王であるキャドワラはこの国々を制服、自らをその国々の宗主とした[11]が、マーシアにテムズ川上流域が侵略されるのを防ぐ事ができなかった[9]

イネはワイト島を奪還、ドゥムノニアを攻勢し圧迫したが、イネの統治晩年にはキャドワラが得た全ての地域、すなわちサセックス、サリー、ケントは失った[9]
ケント

キャドワラの時代、西サクソンはケントを制服しキャドワラの兄弟ムルをケント王に就かせて間接統治していたが、687年の反乱でムルは殺害されていた。その後イネはケント人と694年に和平を結んでいる。時のケント王はウィフトレッドの頃であり、彼は殺されたムルの死に対する多額な賠償を支払ったと言う。その賠償とはどのようなものであったかは分かってはいないが、アングロサクソン年代記の写本のほとんどは「30000」とだけ書かれてあり、一部の写本では30,000ポンドと明確に書かれている。この「ポンド」が当時の貨幣と同じ価値とするならば、この額は王に相当する地位の人間の賠償金と同額に相当する事になる[12][13]
サセックス

前王キャドワラが686年支配下に置いてからイネの時代に変わっても当初イネはサセックスを支配しており[14]、サセックス王ノトヘルムの名で書かれた692年の勅書の中で(恐らくは婚姻を通じての話ではあるが)イネの名前が親族として取り上げられている[6][15]。また710年にノトヘルムがイネと西方ドゥムノニアへの遠征に赴いている事から未だサセックスは西サクソン人の支配下にあった事が窺える[9]

しかしながらベーダの言では、イネはサセックスを「数年の間」支配していたと言う[16]722年サリー、サセックスにエアルドベルドという者が亡命、結果イネがサセックスに侵攻、しかしながらその3年後に今度はそのエアルドベルドを殺すために再びイネが遠征する事になっている。この時点までにはサセックスは西サクソンからの支配を抜けていたものと考えられている[1][9]また、ここで登場しているエアルドベルドはイネの息子、ないしイネの兄弟インジルドの息子ではないかと推測されている[17]
サリー

サリー地方はアングロサクソン時代を通じて一度も独立した勢力が成り立った事はなかったが、イネの時代より前はサリーの支配者はケント、マーシア、エセックス、ウェセックスと渡り歩き安定していなかった。当時のエセックスはロンドンを支配下に置いており、このロンドンの司教区の支配する地域にサリーも含まれていた。この事はこの地域を巡ってイネと東サクソン人、数々のマーシア王との間で軋轢があったと考えられ、705年にサリー地方がウィンチェスター司教区に編入されるまでその軋轢が続いたものと考えられている[18]


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