イトマン事件
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イトマン事件(イトマンじけん)とは、大阪市にあった日本総合商社伊藤萬株式会社をめぐって発生した商法上の特別背任事件である。バブル景気時代を象徴する事件の一つとされる。日本においては、太平洋戦争後最大の経済事件として知られており、紹介されるときにはほとんど枕詞のように「戦後最大の経済事件」というフレーズがつく[1][2]大塚将司のように、1982年 (昭和57年) に起こったロベルト・カルヴィ (アンブロシアーノ銀行頭取) 暗殺事件に始まるイタリアの金融スキャンダルと対比する人もいる[3]
背景

伊藤萬は、1883年明治16年)に創業され一族経営で繊維商社をメインとした会社で、かつては東証1部、大証1部に上場していた。1973年昭和48年)のオイルショックで経営環境が悪化したことをきっかけに、磯田一郎住友銀行副頭取 (当時) の肝いりで住友銀行 (現:三井住友銀行) の常務だった河村良彦が伊藤萬に理事として入社・副社長に就任したのが1975年 (昭和50年)、同年の12月には社長に昇格した[4][5]。それ以降、繊維部門を縮小させると同時に多角経営化を進め、1978年 (昭和53年) には収支を黒字転換することに成功した[6]。一方で河村のワンマン社長化が進むことになった[6]

しかし、1980年年代半ばには多角経営が仇になり、石油業転事件で大きな損失を出した。

石油業転は、土地転がしの石油版といった趣きの商売で、各商社で持っている余剰石油ガソリンを仕入れて、そこにマージンを加え、石油やガソリンが不足している会社へ転売する業である[6][7]。口約束や電話一本で話をすすめ正式な契約書をかわさない一種の信用取引で、通常は元売りから最終的なガソリンスタンドまでの間に複数の会社が関係するため、転売を繰り返すと元手がかからないままで大きな利益を生む[7]

イトマンが燃料事業に参入するのが1982年 (昭和57年) 頃、石油業転へは1984年 (昭和59年) のことだったが、石油を売った相手企業が倒産、売掛金を回収できなくなり大きな損失を出した[6][7]。石油業転に参入したのは、河村の独走や大株主からの収益拡大要求があったためである[8]。更に、石油元売りの大手商社など21社から計100億円の裁判を起こされ敗訴した[9][10]。石油業転で損失を出しただけでなく、業務提携していたコンピュータ会社やおもちゃ会社が倒産する不運も重なり、伊藤萬の業績は悪化、300億円以上の損失を計上する事態にまで陥った[11]

一方、この頃になると伊藤萬は金になるなら何にでも手を出すようになっており、東京本社の取得を名目にした東京・南青山地上げや、業務提携したつぼ八の乗っ取り事件、霊感商法で悪名高い統一教会の関連企業ハッピーワールドへの巨額融資、系列ノンバンクだったイトマン・ファイナンスを通じたパチンコ業や性風俗産業への融資など眉をひそめるような事業を手掛けていた[11][12][注 1]

1986年 (昭和61年) の平和相互銀行事件では、不正融資の資金は伊藤萬の子会社イトマン・ファイナンスから融資されたものだっただけでなく、事件で入手した同銀行の株は伊藤萬を経由して住友銀行に譲渡され、住友銀行が平和相互銀行を手に入れることに一役買うなどしたため、伊藤萬は「住銀の別働部隊」「住銀の痰壺」と揶揄され、同銀行の汚れ仕事担当の企業になっていた[18][19]1988年 (昭和63年) の春には、住友銀行の要請で、1,000億円以上の在庫がある不動産会社を引き取ったため、経営はますます苦しくなった[20]

このように伊藤萬の業績悪化がひどくなるのに比例して、河村のワンマン化も進んだ。住友銀行・伊藤萬創業者の伊藤家からのフリーハンドを得るべく、発行株式を増資して持ち株比率を高めた他、同銀行出身者や伊東家一族を追放し、伊藤萬生え抜きの役員を副社長に据えるなど人事面での改革も行ったが、業績悪化はとまらず、河村は追い詰められていった[20]

河村が苦境に立たされていた時期に出会ったのが、株式会社協和綜合開発研究所の社長 (経営コンサルタント、内実は地上げ屋)・伊藤寿永光だった。河村と伊藤がどのようにして出会ったのかは資料によって書かれ方が異なるので一概には言えないが、伊藤本人の証言によるなら、以前から伊藤と交流のあった磯田が、伊藤萬の苦境を知って、伊藤に河村を紹介したものである[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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