イディ・アミン
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イディ・アミン
Idi Amin Dada

1975年国連総会にて
ウガンダ共和国
第3代 大統領
任期1971年1月25日1979年4月13日
副大統領ムスタファ・アドリシ(英語版)

出生1925年
イギリス
ウガンダ保護領(英語版)(現 ウガンダ)、コボコ或はカンパラ[1]
死去2003年8月16日(77-78歳没?)
サウジアラビアジッダ
配偶者マルヤム・アミン (離婚)
ケイ・アミン (離婚)
ノラ・アミン (離婚)
メディナ・アミン
サラ・アミン

イディ・アミン・ダダ・オウミー(Idi Amin Dada Oumee、1925年[1] - 2003年8月16日)は、ウガンダ軍人政治家、第3代大統領元帥法学博士[2]の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。1975年にはアフリカ統一機構議長も務めた。
経歴
生い立ち

アミンは生涯を通じて自伝や公式の経歴を残さなかったため、出生地や出生日は不詳である。イギリス植民地時代のウガンダで1925年頃にコボコかカンパラ生まれとする説が多数である。

マケレレ大学のフレッド・グウェデコによれば、アンドレアス・ニャビレ(1889年 ? 1976年)の子で、ニャビレはウガンダ北西部の西ナイル地方に住むカクワ族出身で、1910年にカトリックからイスラム教へ改宗し、アミン・ダダに改姓した。イディは父に捨てられ、イディ・アウォ=オンゴ・アンゴー(Idi Awo-Ongo Angoo)の名で母方の家庭で育てられた。グウェデコによれば母はルグバラ族の伝統的なハーブ療法家のアッサ・アアテ(1904年 ? 1970年)でブガンダ王室にも患者がいた。
軍歴

軍歴
 
イギリス植民地軍 王立アフリカ小銃隊
1946年王立アフリカ小銃隊
入隊
1947年二等兵 (Private)
1952年伍長 (Corporal)
1953年軍曹 (Sergeant)
1958年曹長 (小隊長)
1959年エフェンディ (准士官)
1961年最初のウガンダ人国王任命士官
中尉
 
ウガンダ軍
1962年大尉
1963年少佐
1964国軍副司令官
1965年大佐
国軍司令官
1968年少将
1971年国家元首
国防評議会議長
国軍総司令官
陸軍参謀
空軍参謀長
1975年元帥

イディはボンボ(英語版)のイスラーム学校コーランを暗唱、雑務を経て、1946年イギリス植民地軍の王立アフリカ小銃隊(英語版)に炊事係として雇われた[3]。その体格を生かし部隊内の体育大会で活躍し、衆目を集める。

ボクシングではヘビー級チャンピオンになったほか、白人ばかりのウガンダのラグビーチーム唯一の黒人選手として活躍し、植民地軍中尉にまで昇進する。ウガンダ独立後はミルトン・オボテに協力しムテサ2世を排除、ウガンダ軍参謀総長となった。
大統領
権力掌握

ウガンダ軍参謀総長当時の1971年1月イギリス連邦首脳会議のためオボテが外遊中に軍事クーデター(英語版)で権力を掌握。1970年代のウガンダに軍事独裁政権を樹立した。オボテが左派的政策を採ったため、アミンは冷戦下において左派政権の排除を望む西側諸国から期待されてクーデターを実行し成功し、クーデターを支持したイギリスやアメリカをはじめとする西側諸国や、イスラエル反共的なザイールモブツ・セセ・セコと友好的な関係を持った[4]
政策

やがて独裁化が進むとともに約10万[5]から50万人[6]と推計される国民大量虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称され、少数民族、宗教指導者、ジャーナリスト、芸術家、官僚、裁判官、弁護士、学生、知識人、外国人などアミンの政策に異議を唱えた様々な人物が次々に粛清された[7]。ほぼ同時期に大量虐殺を起こして同様に隣国に打倒されたカンボジアの独裁者ポル・ポトとも比較された[8]

また、アジア人追放事件(ほとんどは植民地時代に入植したグジャラート州などの出身の印僑であり、これに伴いインドともウガンダは国交断絶した[9])を起こしてアミンはアジア人ヨーロッパ人の所有する事業を自分の支持者に与えるも杜撰な経営で産業は崩壊した[10]。経済は荒廃し、賃金と給料は9割も低下した[11]

アミンは右腕のアイザック・マリヤムング(英語版)など彼自身の部族であるカクワ族出身者をスーダン人ヌビア人と共に重用した。1977年までに、これらの3つの民族グループは高級軍人の60%と閣僚の75%を構成し、人口の5%にすぎないイスラム教徒はこれらの80%と87.5%を構成した。これはアミンが8回ものクーデターを切り抜けた理由ともされる[12]

アミン政権時代の8年のうちにウガンダの自然環境生態系は密輸業者とウガンダ軍兵士によって行われた広範囲にわたる密猟森林伐採にさらされた。ウガンダでは、ゾウの75%、サイの98%、ワニの80%、ライオンヒョウの80%などが失われた[11]
近隣および西側諸国との対立

このような政策を西側諸国から批判され、当初の西側寄りの姿勢を急変させて1972年にはイギリスと断交してイスラエルの軍事顧問を追放し[13][9]、1973年にはアメリカ合衆国連邦政府も、アミンと距離を置くこととなった[14]

アミンはアフリカにおける反欧米・反イスラエルの代表的存在のリビアムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)と接近し[15][16][17][18]パレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファート議長ともアミンの結婚式に立ち会うなど親しい仲であった[19]


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