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イタロ・バルボ
Italo Balbo
1929年
生誕1896年6月6日
イタリア王国
エミリア=ロマーニャ州フェラーラ
死没 (1940-06-28) 1940年6月28日(44歳没)
イタリア王国
イタリア領リビアトブルク
所属組織イタリア空軍
軍歴1915 - 1940
最終階級空軍元帥
指揮空軍参謀総長
空軍大臣
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イータロ・バルボ(Italo Balbo、1896年6月6日 - 1940年6月28日)は、イタリアの軍人、探検家、政治家。ファシスト政権で「黒シャツ隊」指導者・空軍大臣・空軍参謀総長・リビア総督・北アフリカ方面軍総司令官などを歴任し、独裁者ベニート・ムッソリーニの側近の一人と見なされていた。いわゆるファシスト四天王の筆頭格としてムッソリーニの政治的後継者に指名されていたが、対独関係で対立を深める中、リビア上空で不審な事故死を遂げた。
イタリア空軍の大西洋横断飛行の指揮をとったことで飛行家として、ハーモン・トロフィーを受賞した。 1896年6月6日、フェラーラ地方のクアルテザーナ村で生まれる。若い時から熱心な民族主義者として活動し、14歳でリッチョッティ・ガリバルディ
生涯
陸軍時代
山岳兵としてバルボは複数の勲章を授与される程の英雄的な活躍を見せ、終戦までに陸軍大尉にまで栄転を果たしている。
政治との関わりローマ進軍。ムッソリーニ(中央)の右から2人目がバルボ
終戦後、バルボは軍を除隊してフィレンツェの法律学校で教育を受け、「ジュゼッペ・マッツィーニの経済と社会理論」という論文で法学の学位を取得、地元銀行に務めた。民族主義者としての傾向は保たれており、共和派のイタリア共和党に入党して反王党派運動に加わりつつも、国際主義を標榜する社会主義政党とも激しく対立していた。
1921年にイタリア共和党に限界を感じたバルボは同党を離れ、新たにベニート・ムッソリーニら退役兵が中心となって立ち上げた民族主義政党ファシスト党の結党に参加、自らも党フェラーラ支部の書記に就任した。バルボはフェラーラ支部の党員達を集めて私兵部隊を組織し、地元でストライキを行っていた社会主義グループと市街地で抗争を繰り広げた。バルボの私兵部隊は地元の地主や資産家からの後ろ盾を得て、最終的にエステンセ城を占拠するまでに成長した。
1922年10月28日のローマ進軍で王家の支持を得たムッソリーニがファシスト政権を樹立すると、バルボも党幹部として「ラス」と呼ばれる役職に指名された。これは内戦状態のエチオピア帝国で皇帝が地方の有力者に与えた称号に由来する物で、党の地方支部の指導者を意味する役職だった。バルボはラス層の中でも特に実力のある党員で、党書記長ミケーレ・ビアンキ、退役軍人層を纏める陸軍元帥エミーリオ・デ・ボーノ、国会議員であったチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキらと共にファシスト四天王(en:Quadrumvirs)と呼ばれた。因みにバルボはその四天王の中でも最も若年で、若くして党の中央にあった。
1923年、ファシスト党の独裁体制確立に向けた動きでも積極的に活動し、王国議会に代わって創立されたファシスト評議会の創立メンバーに名を連ねている。同年には反ファシスト派の粛清を推進して、反政府運動を指導していたジュゼッペ・ミウゾーニ司祭を暗殺した容疑で告発された。1924年、バルボは国民経済省の次官と兼任という形で各地の老年退役兵と元・黒シャツ隊員を中心に集めて組織された国防義勇軍という、一種の民兵部隊の総監に就任して軍務に復帰した。
空軍の父イタロ・バルボ(1930年、中央軍服の人物)
1926年11月6日、バルボはムッソリーニによって空軍大臣に指名された。
山岳部隊出身のバルボは空軍に関しては殆ど専門的な知識や経験を持たなかった。それでも彼は自らの庇護下に入った空軍が陸軍から完全に独立する為に様々な政治的努力を重ね、空軍の組織としての基盤を作った。1928年8月19日からは空軍大将の地位を得て、ムッソリーニから独立空軍の全権を実質的に委任された。バルボは空軍の責任者としてイタリア空軍の威信を高める為に国際活動への参加を推進し、スピードレースや南極探検などで空軍に世界的な名声を与えていった。彼は専門的な空軍司令官ではなかったものの、優れた飛行事業家(アビエイター)であった。
またバルボ自身も大臣でありながら自ら長距離飛行部隊の現場司令官という危険な任務に就き、見事大西洋無着陸横断飛行を達成して空軍の躍進に心身両面を捧げた。特に二度目の横断は世界的な注目を集め、着陸したシカゴではバルボ率いるイタリア空軍部隊はアメリカ住民から熱狂的な歓迎を受けた。バルボ通りと改名されたシカゴ第7通り(現在でもバルボの記念碑が残されている)で盛大なパレードが行われた後、アメリカ大統領ルーズベルトからバルボに空軍勲章が授与された。アメリカの白人層のみならずインディアン達からも尊敬を受け、スー族から「Chief Flying Eagle」という称号を進呈されている。
バルボとイタリア空軍の名声は頂点に達し、イタリア系アメリカ人はバルボを祖国の英雄として賞賛した。バルボもイタリア系アメリカ人協会を訪れ、「自分達の出自に誇りを持て」と激励した。バルボと空軍は既にアメリカ白人の主流層に合流しつつあったイタリア系アメリカ人に最後の後押しを与えたのである。帰国後、ムッソリーニはバルボを新たに創設した空軍元帥に叙任し、名実共に彼は空軍の権威となった。
リビア総督時代ムッソリーニ(右)と(1929年)
ムッソリーニとの対立アルファ・ロメオ社を視察するバルボ(右端)
1933年11月7日、空軍大臣の任期を終えたバルボは北アフリカ軍総司令官に転任した。ムッソリーニはファシスト党の掲げる帝国主義の象徴であるアフリカの植民地の拡大を、優れた事業家として空軍の躍進を導いたバルボに託したのである。バルボの新たな使命は西のツッモからスーダン東部のチャド湖に至る不確定地域の確保で、そこで他の列強国の動きを退けてイタリアの権益を確立する事だった。バルボは着任して直ぐにチベスチ地方を訪問し、イギリスやフランスに比べて比較的有利な状態にあった同地の権益主張を開始した。チャド湖周辺の占領はリビアとカメルーン地方を接続する事に繋がりうる重要な計画だった。
1922年から、かつてドイツ領だったカメルーンはフランス領カメルーンと英領カメルーンという委任統治領になっていた。