イタリア_(飛行船)
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イタリア号
船歴
初飛行
その後1928年5月25日、北極で遭難し、その後消息不明。
性能諸元
重量
浮揚ガス水素
ガス容積18,500 m3
全長105.4 m
直径19.4 m
機関マイバッハ発動機 3基
(合計750 hp)
最大速度112.3 km/h
ペイロード9,405 kg
乗員

イタリア(Italia)は、イタリアの探検家・飛行船設計者のウンベルト・ノビレ少将が自身の2回目の北極飛行に使用した半硬式飛行船である。1928年北極点到達の帰路に遭難し、国際的な救助活動が行われた。
設計

イタリア号は、N級半硬式飛行船の一つとしてN4という符号が与えられていた。N1「ノルゲ」とほとんど同一だったが、ガス容積はより大きくなっていた[注釈 1]。イタリアの情報源によれば、ノビレが北極探検に好適であると考えたN5飛行船(より大型で搭載能力はN1の3倍)への資金供与をイタリア政府が拒否したため、民間の後援者とミラノ市の援助を受けてN4を建造したという。
極地探査へ
探検隊のメンバー

乗客

気象学者・物理学者 -
#フィン・マルムグレンスウェーデン) 徒歩で救援要請中に死亡。

物理学者 - フランティシェク・ベゴウネク(英語版)(チェコ) 生存。

物理学者 - アルド・ポントレモリ (イタリア、ミラノ大学) 気嚢とともに行方不明。

新聞記者 - ウーゴ・ラーゴ、ファシスト党機関紙「イル・ポポロ・ディタリア(英語版)」特派員 同上。

乗組員

隊長 - ウンベルト・ノビレ将軍(イタリア) 生存。

航法士 - アダルベルト・マリアーノ(イタリア軍) 徒歩で救援要請に向かう。生存。

航法士 - フィリッポ・
ザッピ Filippo Zappi(イタリア語)(同上) 徒歩で救援要請に向かう。生存。

航海士・水路調査士 - アルフレード・ヴィグリエリ(同上) 生存。

主任技師 - ナタレ・チェチオーニ 生存。

無線操作員 - ジュゼッペ・ビアージ(英語版) 生存。

昇降舵操作員、技師 - フェリーチェ・トロジャニ(英語版) 生存。

エンジン整備士 - エットーレ・アルドゥイノ主任 気嚢とともに行方不明。

- アッティリオ・カラッティ(左舷エンジン) 同上。

- カリスト・チョッカ(右舷エンジン) 同上。

- レナート・アレッサンドリーニ(イタリア語版)(リグ、操) 同上。

- ヴィンチェンツォ・ポメラ(船尾エンジン) 墜落の際に死亡[1]


従軍記者 - フランセスコ・トマセリ(イタリア軍山岳部隊) 遭難時の飛行は不参加 生存。

探検隊のマスコット犬 - ティティーナ ノビレ将軍の愛犬(フォックス・テリア) 生存。

ミラノからニーオルセンへ.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。
主に: 英語版en:Airship Italia#Milan to Ny-Alesund (Kings Bay) flightから抄訳 (2019年12月)

極地探検飛行イタリア号の航路

ノビレは5回の探検飛行を計画した。それはいずれもニーオーレスン(キングズベイ)から出発して同地に戻るコースであったが、探検する区域はそれぞれ異なっていた[2]

最初の飛行は1928年5月11日にニーオーレスン(キングズベイ)から出発したが、着氷と制御システムに問題が発生、わずか8時間で引き返した[3]

2度目の飛行は5月15日に離陸、当時まだ地図に載っていなかったニコライ2世島までの2,500マイル (4,000 km)を往復し、気象・磁気・地理に関する貴重なデータを収集した[4]

3回目の飛行は1928年5月23日に開始され、強い追い風の助けを借りて1928年5月24日の午前0時24分に北極点に到達した。ノビレは天候の悪化により着陸は実施できなかったが、複数の研究者を氷上に降ろす目的でウインチ、膨張式の筏、それに(なんとも幸運なことに)サバイバルパックを準備していた。代わりにイタリアおよびミラノの旗と、ローマ教皇から渡された木製の十字架を氷上に投下し、5月24日2時20分、イタリア号は基地へ戻り始めた。天候は極めて悪く視界はようやく地表を確認できる程度であり、探検隊の気象学者フィン・マルムグレンの予測に従い近距離にあるはずの風の穏やかな区域に出ようと悪戦苦闘した。

5月25日午前9時25分、最初の事故が起こった。昇降舵の制御が効かなくなり、下向きに固定されてしまったのである。イタリア号はすべてのエンジンを停止し、雲層上3,000フィート(約900 m)まで上昇、重要な点として30分間、明るい陽光に船体をさらしている。エンジンを再起動、その後は特段の問題なく1,000フィート(約300 m)まで降下したが、10時25分になって船体がテイルヘビーの状態にあり、1秒間に2フィート(60 cm)の速度で降下していることが判明した。

昇降舵を一杯に上げ重量物を投棄したにもかかわらず、飛行船は墜落、氷塊に衝突した操縦キャビンが壊れると直後に船体から脱落し生存者9人と1人の遺体が氷上に残された。気嚢はまだ空中に浮いたままであり、残る6人の搭乗者は地上に降りることができない。エットーレ・アルドゥイノ主任技師は気嚢とともに徐々に吹き流されつつ注目に値する冷静さを発揮、積載物を手あたり次第に氷上の男たちに投げ落した。一方で生存者たちはこうして必需品と荷物を手に入れ、長期間の試練を耐えしのぶことが出来たのであるが、他方、漂流した気嚢とアルドゥイノ含む乗員は、ついに発見されなかった。墜落場所はおおよそ北緯81度14分、東経28度14分の地点である。生存者の乗った浮氷は、フォイン島(英語版)とブロック島の方向へ流されていた[5]
事故原因

事故原因は、今日なお確定していない。北極の気候と、募る強風に逆らって基地に帰ろうとしたことが最大の原因であり[要出典]、この事実こそが気象学者#フィンフィン・マルムグレンに自殺に等しい行動をとらせた原因となったことは明らかである。もう一つの原因は飛行船を雲層の上に上げた点であり、それが水素の加熱と膨張を引き起こし、自動式のガス調節弁作動を誘発したことにある[要出典]。イタリア号はエンジンを再始動後、雲を通過して再び凍るような冷気の中に戻ったが、その際、調節弁が開いたまま固定されてしまったか、あるいは雲の上ですでにあまりに多量のガスを失っていたかのいずれかの理由により、もはや浮くことはできなくなっていた。
救助活動

この節の加筆が望まれています。
主に: 英語版en:Airship Italia#Rescue effortの差分から抄訳 (2019年12月)

国際的な救助作業が行われたが、イタリア側の無関心と政治的な干渉によって難航した。生存者のみならず行方不明となった遭難者を捜索するノルウェーロシアスウェーデンフィンランドのパイロットの勇敢さは、イタリア・ファシスト政府の不甲斐ない対応と鋭い対照をなした。協調の欠如は事故の生存者すべて(救助に向かって遭難した者も含めて)の救出までに49日以上もかかる結果を招く。ロアール・アムンセンは救出活動に参加しようと、フランスのラザム水上機スピッツベルゲン島に向かい行方不明となり、死亡と推定された。
救助活動の進行(時系列)[6]


5月25日 - イタリア号、流氷上に墜落。#ビアージ通信士が無線機を掘り起こし、ラジオマストを立ててSOS送信を開始。

5月31日 - イタリア号生存者との無線の接触が中断。原因は気象状況に加え、無線監視の維持および定時送信の継続を怠った母船「#チッタ・ディ・ミラノ」号の怠慢であった。#マルムグレン#マリアーノ#ザッピの3名が救援を要請するため、徒歩で出発。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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