イタリア領エーゲ海諸島
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イタリア占領下のエーゲ海諸島 (1912–1923)
Isole occupate italiane dell'Egeo
Τα ιταλικ? κατεχ?μενα νησι? του Αιγα?ουイタリア領エーゲ海諸島 (1923–1945)
Isole italiane dell'Egeo
?ταλικα? Ν?σοι Α?γα?ου Πελ?γου?


1912年?1945年



国旗国章

標語
Per l'onore d'Italia
"イタリアの名誉のために"
国歌
ジョヴィネッツァ[1]


首都ロドス
言語ギリシャ語, イタリア語, トルコ語
宗教ギリシャ正教,
カトリック,
イスラーム
政府入力がありません
司令官(1922年まで)
総督(1922年?43年)
 ? 1912年?13年ジョヴァンニ・バッティスタ・アメーリョ (初代司令官)
 ? 1922年?36年マリオ・ラーゴ (初代総督)
 ? 1936年-40年チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ
 ? 1940年?41年エットーレ・バスティコ
 ? 1941年?43年イニーゴ・カンピオーニ
歴史・時代戦間期 / 第二次世界大戦
 ? 伊土戦争1912年4月27日
 ? イタリア王国への併合1923年
 ? ドデカネス諸島の戦い1943年9月8日 - 1943年11月22日
 ? イタリア社会共和国への移行1943年9月18日
 ? ドイツの降伏1945年5月8日
面積
 ? 19362,668 km2 (1,030 sq mi)
人口
 ? 1936年推定132,289人
     密度49.6人/km2  (128.4人/sq mi)
通貨イタリア・リラ

イタリア領エーゲ海諸島 (イタリアりょうエーゲかいしょとう、イタリア語: Isole italiane dell'Egeo; ギリシア語: ?ταλικα? Ν?σοι Α?γα?ου Πελ?γου?) は、エーゲ海東南の12島(ドデカネス諸島)の、イタリアによる支配を受けていた時代の名称。1912年から1943年にかけてイタリア王国、1943年から1945年までイタリア社会共和国が領有した。なお、1912年から1923年の間は正式に領有していたわけではないため、イタリア占領下のエーゲ海諸島 (イタリア語: Isole occupate italiane dell'Egeo ギリシャ語: Τα ιταλικ? κατεχ?μενα νησι? του Αιγα?ου)と呼ばれる。目次

1 背景

2 初期の統治

3 イタリア人の入植

4 公共事業

5 考古学

6 拡張の構想

7 イタリアによる支配の終焉

8 行政区分

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

背景

1912年の伊土戦争で、ドデカネス諸島はイタリアに占領された(カステロリゾ島を除く)。戦争終結後、イタリアはオスマン帝国に諸島を返還するはずだった[2]が、講和条約の条文が曖昧だったこともあり、イタリアによる仮統治が続いた。1923年のローザンヌ条約第15条でトルコはドデカネス諸島の領有主張をすべて放棄し、ここにイタリアが諸島を正式に領有することになった[3]

仮統治時代の諸島は「ロードス・ドデカネス」(Rodi e Dodecaneso)と呼ばれ、軍人が総督となっていた。1920年8月7日以降はドデカネス副王領(Reggente del Dodecaneso)となった[4]第一次世界大戦が終わるまでに、イタリアはヴェニゼロス・ティットーニ協定(1919年)とセーヴル条約(1920年)の2回にわたり、イタリアはロードス島を除く諸島をギリシャに割譲することを約していた。譲渡に備え、この時期の諸島には広範な自治権が与えられていた[4]。しかしギリシャが希土戦争で敗北を喫したことで、この領土割譲計画は潰れた。

カステロリゾ島は1915年から一時的にフランスが占領していたが、1921年にイタリアの統治下に入った[4]。1923年、ドデカネス諸島は正式にイタリア王国に併合され、イタリア領エーゲ海諸島が成立した[5]

イタリアは戦略的な重要性と将来の帝国建設構想の布石として、エーゲ海諸島を重視していた[6]。レロス島やパトモス島イタリア王国海軍の基地となった[6]
初期の統治

1923年以降、諸島の総督は軍人から文民に移行した。リベラルな外交官から初代総督に就任したマリオ・ラーゴはイタリア人やギリシャ人、トルコ人、ユダヤ人などが入り混じる複雑な民族社会の融和に取り組み、穏健な諸島民の統合を進めた。ラーゴは入植イタリア人に自治権を与え、地元のギリシャ人との結婚を奨励した[5]。1929年、ピサ大学でドデカネス諸島民の学生への奨学金普及額が引き上げられた。これも、学生たちが帰島後にイタリア語やイタリア文化を諸島の中産階級に広めることを期待しての方策だった[7]

ラーゴは唯一、宗教については強硬策をとった。彼はドデカネス島民の自主的な教会を建てさせることでギリシャ正教会の権威を弱めようとしたが、失敗した[7]。イタリア本土でファシズムが台頭すると、島の若者にもバリッラ団などのファシストグループが浸透するようになり、イタリア当局の名の下で諸島のイタリア化が押し進められるようになった[7]。法的には、イタリア領エーゲ海諸島は植民地と本土の中間(possedimento)に位置していた。そのため、島民は完全な市民権を得られず、またイタリア軍に徴兵されることもなかった[5]

1936年にラーゴの後任として総督となったチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキは頑迷なファシストであり、彼の元でイタリア人化政策は急進的になっていった[7]。教育や公共の場ではイタリア語の使用が強制され、ギリシャ語は学校では選択科目の一つに落とされた[5][7]。1937年には、ファシストのシステムによるコムーネの長の直接選挙が行われた[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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