イタリア社会党
[Wikipedia|▼Menu]

イタリア王国の政党
イタリア共和国の政党
イタリア社会党
Partito Socialista Italiano

1919年に使用されていた党章
鎌と槌太陽
創設者フィリッポ・トゥラーティ
アンドレア・コスタ(英語版)
アンナ・クリショフ(英語版)
書記長ピエトロ・ネンニ(英語版)
アレッサンドロ・ペルティーニ
ベッティーノ・クラクシ
著名な政治家イヴァノエ・ボノーミ
パルミーロ・トリアッティ
アントニオ・グラムシ
ベニート・ムッソリーニ
ジャコモ・マッテオッティ
創立1892年8月14日
解散1994年11月13日
前身政党イタリア労働党(英語版)
イタリア革命社会党(英語版)
後継政党イタリア社会主義者(英語版)
機関誌Avanti!(英語版)
党員・党友数674,057(1991年)[1]
政治的思想社会主義
社会民主主義
民主社会主義
キリスト教社会主義
革命社会主義(英語版)
政治的立場極左(結党時)
左派(冷戦初期)
中道左派(冷戦後期)
公式カラー赤
イタリアの政治
イタリアの政党一覧
イタリアの選挙

イタリア社会党 (イタリアしゃかいとう、イタリア語: Partito Socialista Italiano) は、イタリアにかつて存在した政党。略称はPSI。純然たる社会主義政党として設立されたが、後に議会制民主主義を肯定して社会民主主義政党となった[2]

1892年にジェノヴァ市で結党され、イタリア共産党に党勢を凌がれるまではイタリアにおける左翼の中心であった。第12代書記長ベッティーノ・クラクシの時代に最盛期を迎え、ソビエト連邦との関係解消やリベラル政党化を進めて[3][4][5]、社会党中心の連立政権を樹立した。しかし冷戦後に発生した大規模な汚職摘発(タンジェントポリ)で多数の不正が明らかになり、戦前からの権威は完全に失墜した。

1994年11月13日、解党が議決されて102年間の歴史に幕を下ろし、党組織の残余はイタリア社会主義者(英語版)へ引き継がれた。
概要

1890年代にイタリア社会党が議会進出を目指した時、前身政党の支持基盤のあるロンバルディア州エミリア・ロマーニャ州でのみ選挙活動を行った。程なく全国政党としての組織を整え、トリノジェノヴァミラノナポリなど労働者が集まる都市部で支持を伸ばした。エミリア・ロマーニャ州は特に社会党の支持が篤く、今日に至るまで社会主義系勢力の中心地と見られている。1900年の選挙では同州で20.2%の得票を集めているが、他にロンバルディア州やピエモンテ州でも一定の成功を収めた[6]。1910年代の末にはイタリア全域に広がる党組織を保有するまでになったが、支持基盤はより早く党支部が設立された事もあって北部に偏っていた。

第一次世界大戦後、比例代表制が導入された1919年の総選挙では全国で32.0%を得票する圧勝となった。ピエモンテ州で49.7%、ロンバルディア州で45.9%、エミリア・ロマーニャ州で60.0%、トスカーナ州で41.7% 、ウンブリア州で46.5%を得票している[6]。議会では156議席を配分され、これが結党から解散に至るまで社会党の最大議席数となった。党勢拡大の一方で党内では内紛が絶えず、社会党組織の分裂と退潮が続いた。イタリア共産党が分離するとピエモンテ州とトスカーナ州で10%程の支持を集め、これらの地域で社会党は大きな打撃を受けた[6]第二次世界大戦中のレジスタンス運動でも共産党に主導権を奪われ、大戦終結後に行われた1946年の選挙では野党第1党の地位を守ったものの、もはやエミリア・ロマーニャ州とトスカーナ州で支配的な政党ではなかった[7]

1948年の総選挙で社会党は共産党と国民民主戦線(英語版)を立ち上げて人民戦線政府の成立を目指した。この試みはイタリア民主社会党の分離などによって失敗し、そればかりか共産党に議席を奪われる形で第2党の地位を失った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef