イタリア王国の政党
イタリア共和国の政党
イタリア社会党
Partito Socialista Italiano
1919年に使用されていた党章
(鎌と槌、太陽、本)
創設者フィリッポ・トゥラーティ
アンドレア・コスタ
イタリア社会党 (イタリアしゃかいとう、イタリア語: Partito Socialista Italiano) は、イタリアにかつて存在した政党。略称はPSI。純然たる社会主義政党として設立されたが、後に議会制民主主義を肯定して社会民主主義政党となった[2]。
1892年にジェノヴァ市で結党され、イタリア共産党に党勢を凌がれるまではイタリアにおける左翼の中心であった。第12代書記長ベッティーノ・クラクシの時代に最盛期を迎え、ソビエト連邦との関係解消やリベラル政党化を進めて[3][4][5]、社会党中心の連立政権を樹立した。しかし冷戦後に発生した大規模な汚職摘発(タンジェントポリ)で多数の不正が明らかになり、戦前からの権威は完全に失墜した。
1994年11月13日、解党が議決されて102年間の歴史に幕を下ろし、党組織の残余はイタリア社会主義者(英語版)へ引き継がれた。 1890年代にイタリア社会党が議会進出を目指した時、前身政党の支持基盤のあるロンバルディア州とエミリア・ロマーニャ州でのみ選挙活動を行った。程なく全国政党としての組織を整え、トリノ・ジェノヴァ・ミラノ・ナポリなど労働者が集まる都市部で支持を伸ばした。エミリア・ロマーニャ州は特に社会党の支持が篤く、今日に至るまで社会主義系勢力の中心地と見られている。1900年の選挙では同州で20.2%の得票を集めているが、他にロンバルディア州やピエモンテ州でも一定の成功を収めた[6]。1910年代の末にはイタリア全域に広がる党組織を保有するまでになったが、支持基盤はより早く党支部が設立された事もあって北部に偏っていた。 第一次世界大戦後、比例代表制が導入された1919年の総選挙では全国で32.0%を得票する圧勝となった。ピエモンテ州で49.7%、ロンバルディア州で45.9%、エミリア・ロマーニャ州で60.0%、トスカーナ州で41.7% 、ウンブリア州で46.5%を得票している[6]。議会では156議席を配分され、これが結党から解散に至るまで社会党の最大議席数となった。党勢拡大の一方で党内では内紛が絶えず、社会党組織の分裂と退潮が続いた。イタリア共産党が分離するとピエモンテ州とトスカーナ州で10%程の支持を集め、これらの地域で社会党は大きな打撃を受けた[6]。第二次世界大戦中のレジスタンス運動でも共産党に主導権を奪われ、大戦終結後に行われた1946年の選挙では野党第1党の地位を守ったものの、もはやエミリア・ロマーニャ州とトスカーナ州で支配的な政党ではなかった[7]。 1948年の総選挙で社会党は共産党と国民民主戦線
概要
冷戦中期の社会党はピエモンテ州の北東部、ロンバルディア州の北部、ヴェネト州の北東部、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州など一部地域ではまだ10%以上の支持率を集めていた[6][8]。冷戦後半、共産党の躍進に危機感を覚えた右派政党と結んで反共主義を掲げ、南部で急速に支持を広げた。1987年の選挙ではカンパニア州で14.9%、プーリア州で15.3%、カラブリア州で16.9%、シチリア州で14.9%を獲得して全国得票率は14.3%に回復した。1992年の選挙で北部同盟が勢力を伸ばした事も、南部での支持から大きくは響かなかった[6][8]。
冷戦後に政権与党との結びつきで大統領や首相を輩出するなど権勢を極めたが、タンジェントポリによって信頼は失墜した。1994年の選挙では得票率は2.19%に急落し、もはや党組織は維持できず社会党は解散された。後継政党として設立されたイタリア社会主義者(英語版)、イタリア民主社会主義者、新イタリア社会党は主に南部に支持を持ち、2007年に再結党されたイタリア社会党もこの傾向を引き継いでいる。 1892年、ミラノに本拠を置く社会主義政党・イタリア労働党
党史
黎明期
フィリッポ・トゥラーティとアンドレア・コスタ
アンナ・クリショフ
1895年、制限選挙であった王国代議員選挙(イタリア語版)で社会党は15議席を獲得した。イタリア統一戦争以来、イタリア王国議会は政治家達の緩やかな会派(歴史的右派(イタリア語版)、歴史的左派(イタリア語版)、歴史的極左(イタリア語版))が主導していた。