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イタリア王(イタリアおう、羅: rex Italiae, 伊: re d'Italia)は、君主号の一つで、西方正帝の廃止後にローマ帝国の本土であったイタリア(半島部及び大陸部)を支配した人々が多くの場合に使用した歴史的背景を持つ王位。ただし実態を伴うかについては議論が残り、例えば1870年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によるローマ占領が行われるまで、長らくイタリアの中心地であったローマ市は歴代国王の支配下になかった。
歴史
帝国本土の争奪詳細は「イタリア本土 (古代ローマ)」、「東ゴート王国」、および「ラヴェンナ総督領」を参照
ユリウス・ネポス帝、あるいはロムルス・アウグストゥルスの失脚まで、イタリア半島部及び大陸部は古代ローマの本土として統治されていた。王政期にはローマ王(rex)、共和政期には執政官や独裁官、帝政期にはローマ皇帝が君主として君臨し、帝政末期に皇帝権が二分されると「西の皇帝」(西ローマ皇帝)による支配が行われた。
476年のロムルス・アウグストゥルスの退位、および480年のユリウス・ネポス帝の暗殺によって西ローマ皇帝の称号は、元老院を通じて東ローマ皇帝ゼノンへと返還された。ゼノン帝は帝位返還の見返りとして、両者を追放・暗殺したヘルール族の族長オドアケルに「ドゥクス・イタリアエ」(dux Italiae、イタリア領主)の称号と、かつての帝国本土を支配する権利を与えた。従ってオドアケルが最初の「イタリア王」(rex Italiae)であると考える向きもあるが、オドアケルが rex Italiae の称号を公式に使用したかについては議論が残る。
493年、唯一のローマ皇帝となったゼノン帝はオドアケル討伐の命令を東ゴート族の王テオドリックに命令した。テオドリックはオドアケル軍を滅ぼすと新たにイタリアの支配者として承認され、また明確に自身が rex Italiae であると宣言した。一方で東ゴート族が数的に少数であり、周囲の反感を恐れて「国王」(rex)の称号のみを使用する場合もあった(東ゴート王国)。テオドリックの支配はオドアケルよりは長く続いたが、552年にベリサリウス率いるローマ軍の大遠征によって攻め滅ぼされた。再びイタリアはローマ皇帝の領域(ラヴェンナ総督領)となったが、この時代は短い間しか機能しなかった。
混乱の時代ロンバルディアの鉄王冠詳細は「ランゴバルド王国」、「フランク王国」、「シチリア首長国」、「シチリア王国」、「ナポリ王国」、および「トリナクリア王国」を参照
568年、ランゴバルド族の王アルボイーノはベリサリウス失脚後のローマ帝国に他の異民族と連合して攻め込み、イタリア王の称号を使用した(ランゴバルド王国)。ランゴバルド王国はそれまでの勢力とは異なり、イタリア本土の行政区を完全に支配することは最後までできず、イタリア王というよりもランゴバルド王(rex Langobardorum)としての側面が強かった。最初期には北東部のヴェネツィア周辺、北西部のリグーリア、ロマーニャ、中部のローマ周辺、南部のナポリ周辺、カラブリア半島、サレント半島、シチリア島などはローマ皇帝に忠誠を誓っていた。支配が進む中でこれらの地域にも遠征が行われ、幾つかの地域は王国に併合された。それでも一部地域は抵抗を続け、次第にローマ公国・ナポリ公国・カラブリア公国・アプリア公国・ヴェネツィア共和国などランゴバルド王国に対峙する統治体制を形成していった。混乱に拍車をかけたのが、フランク人とアラブ人の侵入であった。
774年、フランク王シャルルマーニュは南フランスからランゴバルド王国領に侵攻すると、王国の北部・中部領域を占領下に置いた。同時に、実質的に崩壊状態に陥ったランゴバルド王国の併合をも宣言して、使用されていた王冠(ロンバルディアの鉄王冠)を持ち去った。一方で、遠征を途中で切り上げたことから南部は遠征の影響を受けず、さらに中部は後にローマ教会へ寄進されて教皇領となった。南部ではローマ帝国の封建勢力と旧ランゴバルド王国の南部領土を前身とするベネヴェント公国が、以前からの戦いを引き継いで紛争を続け、そこに北アフリカを支配したアラブ人の攻撃が始まった。827年、アグラブ朝イスラム帝国がシチリア島に上陸(イスラム教徒のシチリア遠征(英語版))、一度は撃退されたもののファーティマ朝の時代に再び占領され、952年にシチリア首長国が成立した。
1071年、南部情勢はヴァイキングの到来によって一応の終焉を見る。サレント半島を押さえたノルマン貴族ロベルト・イル・グイスカルドはローマ系、ランゴバルド系の別を問わずこれらを併合し、さらにその弟ルッジェーロ1世がシチリア首長国も占領して一つの王権にまとめ上げた(ノルマン・シチリア王国、オートヴィル朝)。後にナポリ王国とトリナクリア王国という二つの王国に分離したものの、それ以上の混乱は起こらなかった。
神聖ローマ帝国の封建体制詳細は「神聖ローマ帝国」、「イタリア王国 (中世)」、および「イタリア王国 (1805年-1814年)」を参照
フランク王国の後裔である神聖ローマ帝国はランゴバルド王国を滅ぼして得た権威をもって、皇帝がイタリア王を兼ねると宣言していた。
しかし領土的には先述の通りランゴバルド王国の一部だけであり、中部の教皇領、南部のナポリ王・トリナクリア王の領域では君主としての権威を持たなかった。さらに北部領域においてもロンバルディア同盟との戦いなどを経て、徐々に実権を失っていった。その点において同時代のイタリア王(rex Italiae)の称号はイタリアの支配と同義ではなくなってしまっており、この歪な状態は中世から近世の長きにわたって続くことになる。
1805年、近代に入ってコルシカ島出身のナポレオン・ボナパルトが神聖ローマ帝国を滅ぼした後、占領下に置いていた地域に傀儡国家を樹立するためにロンバルディアの鉄王冠を使ってイタリア王への即位を宣言した。